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第30話
「好みに合うといいけど。きみは細かい作業に目と指を酷使する仕事柄、肩がこるんじゃないのかな。どうぞ、血行をよくする効果があるお茶だ」
ヴォルフは、もごもごと礼を言った。十分冷めるのを待って、しぶしぶという体で口をつけたとたん、仏頂面がほころびていった。
喩えて言えば、ひと鍬 入った春の大地──。ふくよかな味が口の中いっぱいに広がって本物の笑みが浮かぶ。
だが感想を求めるように物問いたげな眼差しを向けられると、無性に苛つく。黙って飲み干すにとどめて、紫苑の花びらをむしった。
磨りガラスを通して陽光が射し込み、床にモザイク模様を描く。清爽な香りに包まれて、茶房の中では時間がゆっくりと流れるようだ。
ヴォルフは思った。八百万国家のハネイムといえども、ヒトが営む茶房は恐らくこの一軒のみだ。
ならば噂を聞きつけて野次馬が集まりそうなものだが、この店を隠れ家と位置づけておきたい客たちが、暗黙裡に協定を結んでいるのかもしれない。努々 輝夜を見世物にすること勿 れ、茶房についてよそで妄 りに語るな──と。
それをいいことに、と豹の耳が怒る。見た目は上品な店主は、裏では補給用と称して適当なオトコを客の中から選び、毒牙にかけているんだぞ。
輝夜が先客たちのグラスに、お冷やをつぎ足して回る。ひとこと、ふたこと言葉を交わしてカウンターの内側に戻ってきたときには、顔が曇っていた。
「きみの工房があるプラタナス通りは朝方、大変な騒ぎだったそうだね」
「まあな。危ない連中がうろついてるかもだから、あんたもむやみに出歩くな……」
語尾にかぶさって腹が盛大に鳴った。正午を告げる空砲のごとく店内に響き渡り、鹿族のふたりの少女が噴き出した。でっぷりした狼族の紳士は新聞で顔を隠し、だが肩が震えている。
第八とはいえ仮にも王子たる者、笑い者になるなど御免だ。ヴォルフは殊更ゆっくりと首 を巡らせて、ひとりひとり睨みつけた。毅然と立ち去るべく腰を浮かせたところに、鍵が差し出された。
「奥の、おれの部屋に作り置きのスープとパンがある。よければ、どうぞ」
鍵を押し返すはしから、懐 にねじ込んでくる。押し問答するのも面倒で、根負けしたふうを装って受け取った。
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