29 / 129

第30話

「好みに合うといいけど。きみは細かい作業に目と指を酷使する仕事柄、肩がこるんじゃないのかな。どうぞ、血行をよくする効果があるお茶だ」  ヴォルフは、もごもごと礼を言った。十分冷めるのを待って、しぶしぶという体で口をつけたとたん、仏頂面がほころびていった。  喩えて言えば、ひと(くわ)入った春の大地──。ふくよかな味が口の中いっぱいに広がって本物の笑みが浮かぶ。  だが感想を求めるように物問いたげな眼差しを向けられると、無性に苛つく。黙って飲み干すにとどめて、紫苑の花びらをむしった。  磨りガラスを通して陽光が射し込み、床にモザイク模様を描く。清爽な香りに包まれて、茶房の中では時間がゆっくりと流れるようだ。  ヴォルフは思った。八百万国家のハネイムといえども、ヒトが営む茶房は恐らくこの一軒のみだ。  ならば噂を聞きつけて野次馬が集まりそうなものだが、この店を隠れ家と位置づけておきたい客たちが、暗黙裡に協定を結んでいるのかもしれない。努々(ゆめゆめ)輝夜を見世物にすること(なか)れ、茶房についてよそで(みだ)りに語るな──と。  それをいいことに、と豹の耳が怒る。見た目は上品な店主は、裏では補給用と称して適当なオトコを客の中から選び、毒牙にかけているんだぞ。  輝夜が先客たちのグラスに、お冷やをつぎ足して回る。ひとこと、ふたこと言葉を交わしてカウンターの内側に戻ってきたときには、顔が曇っていた。 「きみの工房があるプラタナス通りは朝方、大変な騒ぎだったそうだね」 「まあな。危ない連中がうろついてるかもだから、あんたもむやみに出歩くな……」    語尾にかぶさって腹が盛大に鳴った。正午を告げる空砲のごとく店内に響き渡り、鹿族のふたりの少女が噴き出した。でっぷりした狼族の紳士は新聞で顔を隠し、だが肩が震えている。  第八とはいえ仮にも王子たる者、笑い者になるなど御免だ。ヴォルフは殊更ゆっくりと(こうべ)を巡らせて、ひとりひとり睨みつけた。毅然と立ち去るべく腰を浮かせたところに、鍵が差し出された。 「奥の、おれの部屋に作り置きのスープとパンがある。よければ、どうぞ」    鍵を押し返すはしから、(ふところ)にねじ込んでくる。押し問答するのも面倒で、根負けしたふうを装って受け取った。

ともだちにシェアしよう!