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第31話

 その実、ジョイスが入り浸っていたであろう場所に俄然、興味が湧く。稀覯本(きこうぼん)の表紙を開く思いで茶房と自宅を仕切る扉を開けた。寝室と台所を兼ねるそこは、長身でたくましいヴォルフにとっては、おままごとの家だ。 「いってえ……っ!」  吊り戸棚があることを忘れていたせいで、(かまど)の埋火をかき立て終えて立ちあがった拍子に、嫌というほど頭をぶつけた。  ヴォルフと身長がほぼ同じだったジョイスは、ここで湯を沸かすなどしたさいにはを作ったことがあったかもしれない。そんな失敗談も、恋人たちの間では大切な思い出になりえたのか。  ──ジョイスは意外にドジだね。  ──部屋が狭いのが悪い、いや、狭いほうがいい。おまえとくっついていられる……。  こういう類いの、やりとりだってあったはず。空想の中のジョイスと輝夜はこのうえなく幸せそうに寄り添い、甘みと苦みを等分にはらんで心が軋んだ。  ほろほろに煮えた鶏肉のスープは塩水に、パンはゴムに変じたように感じられて、空腹の割にはあまり喉を通らない。それでも人心地がつくと眠気をもよおし、床にごろりと寝転がった。  金波、銀波を越えてハネイム王国にやって来た船乗りは、水平線の向こうに現れた首都ウェルシュクの美しさに息を呑み、しばし甲板に立ち尽くすという。階段状にひしめく白亜の家並(やなみ)が、朝焼けの下で薔薇色に、夕陽に照り映えて珊瑚色に、あるいは月に磨かれて真珠色に染まるさまは、数多(あまた)の芸術家を虜にしてきた。  だが光が射せば影ができるのが世の習い。華やかな都にしても、貧民窟があれば娼館街もある。その一帯が疫病の発生源になった前例があるからといって、今度もまた、と先入観に囚われるのは禁物だ。  では、いったいどこから獣人を獣人たらしめる耳を冒す病魔がさまよい出てきた?  「ソーンのやつ、無事に帰り着いたよな」  抜け道に詳しい、はしっこい友人のこと。今ごろは自分の家で高いびきに決まっている。  ヴォルフは今まで自分は肝が据わっているほうだ、と思っていた。しかし、それも状況によりけりだ。目を血走らせた群衆が工房を取り囲んでいる光景には、寿命が縮まった。居ながらにして焼き討ちに遭う可能性がゼロではなかっただけに震えあがるのも当然だ。  ため息交じりに寝返りを打つ。何しろ、せせこましい部屋だ。尻尾が、柳細工の椅子の背もたれに引っかけてあったガウンを払い落とした。  輝夜自身がおぶさってきたように背中にかぶさり、こめかみを袖がくすぐる。  輝夜に接して初めて知ったがヒトの香りは水仙のそれのように、あえかだ。ところがガウンからは淡々しい残り香の他に、洗濯しても消え残る性の匂いが嗅ぎ取れる。

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