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第35話

 ヴォルフは全身のバネを利かせて竈の近くまで跳んだ。岩から岩へと跳躍する豹、そのままに。  尻尾をさばいて仁王立ちになり、輝夜を()め据える。そして眼光炯々と、切れ長の目の奥にひそむ真意を探った。今の出来事は偶然なのか。もしも唇を狙いを定めて故意に仕かけてきたのなら容赦しない。必ずや後悔する目に遭わせてやる。  帯電したように空気が張りつめ、それでも輝夜は深山(しんざん)に抱かれた湖のごとき静けさをまとって、ただ座していた。  ぶわっと膨らんだ尻尾が元の太さに戻った。 「……帰る、世話になったな」 「引き留めても、きみは帰ると言い張るだろうね。気をつけて、お帰りよ」 「何があろうが、てめえの身はてめえで護る。あんたこそ、ひ弱なヒトだ、せいぜい用心するんだな」    耳がらみの騒ぎがどう転ぶかわからない、用心棒が必要なときは俺を呼べ──。そう申し出たら笑顔の花が咲くのか、ありがた迷惑と一蹴されるのが関の山か。確かめてみたい衝動に駆られると小娘のように顔が赤らみ、恐らくそれは躰の芯に欲望がくすぶっているせいだ。  ヴォルフは唇を舐めて湿らせたものの結局、無言を貫いた。輝夜と相対すると、やけに心をかき乱されて困る。つまり、とことん相性が悪いのだ。会うのは、これっきりにするに賢明だと頭の隅っこで考える。  茶房に通じる扉はノブを回して開け閉めする、ありふれたものだ。なのに開け方を度忘れしたようにノブを摑んだところで固まった。  己のもたつきっぷりに焦れて、いっそ蹴破ってやろうと靴底を扉にあてがった。勢いをつけるため軸足を踏ん張ったせつな、うなじを炙られるような感覚に襲われた。肩越しに振り向いて息を呑む。  封印してきたものがあふれ出したように狂おしい視線と、視線が絡んだ。嫌な目つきだ、とヴォルフは眉根を寄せた。輝夜はあたかも俺と兄貴の相違点を数えあげては、心の傷に薄く張ったカサブタを搔きむしる真似をしているように思える。  俺は俺、兄貴は兄貴。俺の中に兄貴の面影を探して、哀しみと名づけた壷を〝失望感〟という雫で満たすな……!  全身で扉を押し開けた。呼び止められても無視して、走り去った。  一週間後、つけ耳屋の工房を取り巻いた者たちの中から最初の死者が出た。町医者の診立ては「風邪をこじらせて肺をやられた」。  狼の耳はなかば溶けてなくなり、病理解剖を、と助手が進言したが、因果関係は認められないとして遺体はそのまま埋葬された──。

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