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第44話

 ションベン、と言い捨てて背中を向けた。そしてヴォルフは木立ちの奥へ奥へと、ずんずん分け入った。ひと筋の飾り毛が首筋から尾骶骨にかけてを山吹色に彩るが、その範囲が広がりはじめる兆しを見せて、周囲の皮膚がむずむずする。獣の血が細胞に変化をもたらしはじめているのだ。  月齢と感情の振れ幅は密接に関係していて、月齢十五の前後二日間はとりわけ激しやすい。だが輝夜の反応にカチンときた理由は別にある。だんまりを決め込むさまに縮まりがたい距離を感じたせいだ。  おまえにここから先の領域に踏み込む権利はない、と暗にほのめかす以上に雄弁な眼差しに胸を撃ち抜かれた。  同じことを兄貴が訊いたら。不意にそう思うと、当たるを幸いに幹を蹴りつけてしまう。ギルヨークだかの故郷(ふるさと)はこんなところで、生い立ちはこうこうで、と嬉々として話して聞かせていたに決まっている。  恋人と、その弟に対しての接し方に差が生じるのは当然のことだ。要するに俺は兄貴と同等に扱ってくれ、と厚かましいことを望み、それが叶えられないとあって拗ねたのだ。  ガキかよ、と自嘲気味に嗤い、それでも足は勝手に進む。倒木に乗ると内部(なか)が腐っていて、踏み抜き、すると蟻の群れがジーンズを這いのぼってきた。  尻尾にまでもぐり込んだやつをつまみ取っているうちに、さすがに頭が冷えた。闇雲に歩いている間に、ずいぶん遠くまできてしまったようだ。  あたりを見回す。来た道は緑の洪水に呑み込まれて、森の一角のぽっかりと開けた場所は右手の方角か、それとも左手の方角か。平常であれば自分の臭跡が道しるべになり、元の場所に戻るのは訳がない。ところが蟻酸(ぎさん)のせいで鼻が一時的に馬鹿になってしまい、自慢の嗅覚も形無しだ。 「いい年して迷子かよ、みっともねえ」  頭を搔きむしり、ついでに耳をさわる。軟骨がぶよぶよになってもいないし、腫れてもいない。毛の量は豊富で、絹糸のような手ざわりだ。ひと通り(あらた)めて、ほっと息をつく。大丈夫、俺は耳欠け病にかかっていない。  下草を踏みしだいた跡をたどって引き返している最中、ケーン、とけたたましい鳴き声が響き渡った。脅かしやがって、野鳥だ。そう自分をなだめても、静寂を破ったものは悲鳴に思えて嫌な汗がにじむ。  近隣諸国と較べるとハネイム王国は犯罪の発生率が低いほうだが、それでも時折、猟奇的な事件が起きる。迷宮入りになっている事例もあって、その点、森は殺人鬼が隠れ住むのにもってこいだ。  もしも、この瞬間に輝夜がお尋ね者と遭遇したら……? 木登りが得意だとか駿足だとか、己を護る武器を持たないヒトは、血に飢えた獣人にとって恰好の獲物だ。

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