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第50話

 ヴォルフは舌打ちをした。致命的な、しくじりをやらかした。これが動きしだい鬼につかまるという決まり事がある遊戯なら、(はや)し立てられるところだ。  ──やあい、ドジ、やあい、ヘマこいた。  勝利を確信したふうに、彼我のあわいに吐息混じりの笑い声がくぐもった。神経を逆なでして、にもまして官能の中枢に直接働きかけてくるような、その響きに眩惑(げんわく)される。  土塊(つちくれ)が清流を濁らせる。それはヴォルフの(うち)から正常な判断力が失われゆくさまを具現化した光景、そのものだ。  上目づかいに見つめてくる双眸は闇を宿し、うっかり覗き込むと、その闇に堕ちていくような危ういものを秘めていた。いや、すでに呪縛された。  そうと察して、且つ満を持して、掌がジーンズの中心にかぶさった。表面張力の作用で水がこぼれるのを免れていたグラスに雫をもうひと垂らしするも同然の、あざといやり口だ。 「さわ、るな……っ!」  豹の耳があちらを向き、こちらを向いた。ほだされて関係を結んだ、という図式が成り立つ状況だ。狡猾にも、そう考える自分がいる。  なぜなら耳欠け病が蔓延するにつれて人心がすさみつつある現在(いま)、輝夜が味見する程度の軽い気持ちで寝台に引きずり込んだオトコが、躰を重ねたとたん残忍な本性をあらわにして、敷布が血の海と化す真似をしでかさないとも限らない。だったら広義に解釈すれば、野放図にオトコを調達するのをほったらかしにしておくより、ヴォルフ自身が飢えを満たしてやるほうが安全だ。  前立てに沿って掌が這い進む。〝兄の恋人〟という枷を引きちぎって貪り食らって何が悪い、やせ我慢を張るだけ損だ──心の中の天秤が一方に傾くのを見澄まして、つう、とペニスの輪郭をなぞる。  へっぴり腰になって掌を遠ざけるさまが、影法師に滑稽な踊りを踊らせる。くすり、と朱唇が底意地の悪い弧を描いた。  カチンときて、(たが)が外れた。横抱きに輝夜をさらいとるのももどかしく、大股で岸辺を離れる。野生の藤が折り重なって枝垂れて天然のタペストリーを織りなす一角があった。その内側の地面に、なかば投げ下ろす勢いで横たえた。  鬱蒼とした森は密か事を隠してくれる。午後のひとときが、まったりと過ぎていく。  根拠にとぼしい説を最初に唱えたのは誰だろう。耳欠け病の感染源はヒト──と。  曰く、さるヒトの科学者が獣人を殲滅(せんめつ)せんと目論み、獣人の健康を害する酵素を開発すると、これを、そこかしこの井戸に混入した。  診療所の待合室で、乗合馬車の発着所で、市場で酒場で、ひそひそと囁き交わされるにつれて肉付けがほどこされて、ヒトを悪の権化と位置づける物語が作られていく。

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