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第61話

「あっ、あなたさまは、いつぞや電話局を兼ねた郵便局にいらっしゃった御方……!」 「憶えていてくれたんだね、彼に……」  指し示されて、ヴォルフはむっつりとうなずいて返した。俺の名を呼ぶのは逆立ちで街を一周するくらい難しいことなのか、それとも災いが降りかかるようで口にすること自体おぞましいのか。 「電報を届けてくれるよう頼んだね。あのときは、ありがとう」 「お安い御用っす。迅速確実丁寧な配達がおいらの信条で、いつでもご用命を」 「頼もしいな。すばしっこいことで定評がある鹿族には天職なんだろうね」  輝夜がにこやかに応じると、 「ひゃあ、テルさんと呼んでもいいっすか」  ソーンはふにゃふにゃと笑み崩れ、ヴォルフは半ズボンから覗く丸まっちい尻尾をひとひねりしてやった。そして輝夜のほうへ四分の一歩ずれながら、包帯に顎をしゃくった。 「それ、どうした。火傷でもしたのか」 「大したことはない。店の窓ガラスが割れたときに破片が飛び散って、ちょっと切れた」 「割れた? でっかい(ひょう)でもぶつからなきゃ、簡単に割れねえだろうが」 「自警団を結成した連中が、耳欠け病の患者を匿ってるだろうって商店に難癖をつけたり、協力金を徴収する名目で強請(ゆす)ったりしてるって。テルさんとこも、とばっちりで窓に石を投げられたとか?」    あの肉屋が、この洋品店が標的にされた──ソーンが配達先で見聞きした実例を挙げる。輝夜は曖昧に相槌を打つのみで、静かにグラスを傾けた。  ヴォルフはカウンターに行って、つまみを何品か見繕ってきた。輝夜とソーンが釣られて手を伸ばすように、と真っ先に羊の腸詰を摑み取りながら、フードでなかば隠された横顔を盗み見る。  以前は、つけ耳の品質向上の他にこれといった悩みはなかった。ひるがえって目下、最大の悩みの種は輝夜に対してどう接するのが正解なのか──だ。  一線を越えた午後以来、しばしば情交に及んでいる。さしずめ息も絶え絶えに対岸に泳ぎ着いた海峡を、二度目はすいすいと泳いでのけるように。だが肉体的な面でしっくりいけばいくほど、心理的な距離はかえって遠のく気がする。  輝夜は、つくづく扱いに困る存在だ。  ソーンが話しかけてきても生返事で濁しておいて、ヴォルフは腸詰を嚙みちぎった。一昨日のことだ。どうしても、そうしたい衝動に駆られて輝夜のあれに舌を這わせてみた。ちょうど、この腸詰のようにぷりぷりした感触で、 「いきなり真っ赤になって、どしたの。一杯目で、もう酔ったん」 「混んでるからな、(あち)ぃんだ」  片手で顔を扇ぎ、もう一方の手でシャツの衿をばたつかせた。ソーンめがけて煎った木の実を指で弾き、輝夜の前にはチーズが盛りつけられた皿をすべらせる。

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