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第70話

 ヴォルフは、なおもしゃにむに表に飛び出そうとするのを腕を摑んで制した。言葉足らずなぶんを補うように、豹の尻尾が狂おしく虚空を打ち叩く。 「俺は、俺が殴られるより、あんたが殴られるほうが泣きたくなるくらい……つらい」  語尾が切なげに震え、力ずくで押しとどめる以上の効果をもたらす。輝夜は、ヴォルフと扉を見較べたあとで扉から半歩離れた。  ヴォルフは雨合羽をむしり取った。いつのころからか輝夜が愛しげに指環を撫でると無性に苛立ち、朱唇がほころぶと春風に吹かれたみたいに気持ちが浮き立つようになった。  氷原の中の新芽さながら、ぽつりと芽生えた感情に冠するにふさわしい呼び名をヴォルフは知らない。原石にあたるそれを研磨するのが正しいのか、くすむに任せておくのが賢明なのか、迷う以前の段階にある。  だが今は心の片隅をちろちろと焦がす程度の小さな炎は、時が至れば、めらめらと燃えあがると予感させるものがあった。そう、輝夜をも紅蓮の炎で包み込む勢いで。 「ここにいろ、俺のそばに。あんたが襲われたら何度でも、誰とでも闘ってやる」  輝夜は、ただアヤフヤにうなずく。うれしがらせの類いなど聞き流すに限る、と言いたげに。  雨垂れが沈黙を埋める。雨脚が強まれば強まるほど臭跡を消し去ってくれるが、それでも先ほどの三人組が執拗にヴォルフたちを捜し回っていた場合、彼らへの目印になることを危惧してランプの明かりは絞ってある。ふたりの獣人と、ひとりのヒトの影法師は、無言劇を演じているように密やかに揺らめいた。  と、調子っぱずれな口笛が、重苦しい雰囲気を吹き飛ばした。 「やっぱり、そうなんだ。へええ、カタブツで通ってたヴォルフがねえ」  へええ、へええ、とソーンが妙ちきりんな節をつけて繰り返す。輝夜がまばたきひとつ、浜辺に打ちあげられたクラゲめいて、床に捨て置かれっぱなしの濡れタオルを拾いあげた。ヴォルフは、長椅子の背もたれに尻を引っかけて足を組んだ。 「にたにたしやがって、気色悪いぞ」 「痴話喧嘩を目撃したっぽくてさあ。おいらはおじゃま虫、みたいな?」  すかさず鹿の尻尾をひねって返す。ソーンは嘘泣きしてみせると、 「買い出しにいってこようっと。ごゆっくり」  に含みを持たせて夜雨の中に駆け去った。  ヴォルフは裏口からすべり出て、あたりの様子を窺った。街は鈍色(にびいろ)にけぶり、辻馬車がつくねんと道端に停まっているきりで、人っ子ひとり通らない。  獣人は宵っ張りで、月光が新陳代謝を促すことも相まって、嵐が吹き荒れる晩以外は夜歩きを好む。空と海という(がく)に収まっているかのごとく美麗な首都ウェルシュクが、そっくりそのまま幽霊都市と化したような異様な光景だ。

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