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第75話

 老獪(ろうかい)さに太刀打ちできなかったとはいえ、捨て台詞を吐くのが精一杯だったとは情けない。ヴォルフは、海面に映る自分自身を罵倒した。 「腰抜け、ヌケ作、根性なし……っ!」  我も我もと首都を脱出するありさまで、景気がいいのは引っ越しに駆り出される辻馬車くらいだ。街から活気が失われようがカモメの群れは悠々と飛び交い、陽気な鳴き声を背に、ザクロ通りへと走る。  すると茶房の看板は外されていた。界隈の家と同様の白壁は、別の色のペンキで塗り替えたものをこすり落としきれなかったような筋が残っていた(嫌がらせにブタの血をぶちまけられた痕だとのちに知る)。  快晴にもかかわらず鎧戸を閉め切ってあるのは、 「ヒトは疫病神だ、ヒトを殲滅(せんめつ)しろ!」  などと今しも街角で一席ぶった類いの扇動者を警戒して、空き家に見せかけるための工夫だろうか。実際に闇討ちを食うに等しい出来事があった、と考えるのはうがちすぎか。  もしも、すでに(もぬけ)の殻だとしたら……? 心臓が跳ね、尻尾は反対に垂れ下がり、 「俺だ、ヴォルフだ。いるのか、いるんだろう、ここを開けろ」  戸枠の隙間に口許を押し当てると、歯切れよく、だが押し殺した声で呼びかけた。掛け金を外す微かな音が内側から聞こえてくるまでの数十秒が一時間にも感じられて、足踏みをするほど焦れったい。  ようやく招じ入れられたものの戸口で立ち尽くした。椅子もテーブルも処分したのか、がらんどうだ。各種の薬草茶を保存していたガラス瓶もすべて姿を消して、造りつけの棚も空っぽだ。単に片づけたという段階を通り越して、茶房そのものを閉める準備をしていたとしか思えない。 「ご覧のとおり何も出せないよ、悪いね」  と、輝夜は案内人よろしく、上に向けた掌を二分の一の円弧を描く形に動かした。徹夜をしたのか顔はこころなしかむくみ、目の下は紫がかっている。  他のオトコを銜え込んだがゆえの色やつれじゃないだろうな。場違いな考えが浮かび、ヴォルフはぽつりと床に落ちていた茶葉をつまみあげた。肋骨が共鳴板と化したかのごとく鼓動がうるさい。茶葉をぐしゃりと握りつぶすと、すっからかんの棚へ顎をしゃくった。 「夜逃げの支度でもしてたのか。借金で首が回らなくなったとかなら、ひとこと相談しろ」 「こんな世情だ。ヒトが淹れたお茶を飲みたがる客はいない、ここは、たたむよ」 「たたんで、どうする。新しい商売に鞍替えするつもりなのか」 「さあ……身の振り方は、カードを切って決めようかな」  輝夜はさばさばと答え、だが強がりが透けて見えた。食器類を詰めた木箱が、壁に寄せて積んである。その木箱に崩れ落ちるように腰かけて、膝に頬杖をつくと、くすくすと笑う。あきらめの境地に達した、と語る乾いた笑い声だった。

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