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第80話

 うなずき返すでも、かぶりを振るでもない頑固者の心を動かすには、ありきたりの方法では駄目だ。そう思い、心臓の真上の肌をえぐるように引っかくと、にじんだ血を用いて朱唇に〝ヴォルフ・リュタニル=ラヴィア〟と綴った。  血の誓約──それは豹族にとって最上級の儀だ。約束を破ったときは尻尾を切り落として償う、と覚悟のほどを示すものだ。  もちろん尻尾が生えていないヒトが相手では形式的なものにとどまる。それでも並々ならぬ気魄がこもっていることは伝わったはず。  輝夜は人差し指で唇をなぞり、うっすらと紅色が移ったその指を口に含んだ。細胞の一部にヴォルフが宿った、と言いたげな厳かな雰囲気を漂わせて、ごくごく微かに首肯した。  曲がりなりにも言質(げんち)を取ったものの、豹の耳は依然として垂れ気味だ。自分と輝夜の関係は薄氷(うすらい)さながらもろくて、明日も会えるという保証なんてどこにもない。輝夜が、ふっと姿を消したとしても恨むなど論外。彼の意思を尊重すべきだ──。  と、頭ではわかっていても感情は別物だ。ひっかき傷に血の珠が盛りあがると激情に駆られた。  ヴォルフは指環にかぶりつくと、ひねりを加えて引っぱった。未だにジョイスと固い絆で結ばれている、と物語るこれが輝きを放つかぎり、仮に輝夜を百万回抱いたところで、彼との心の距離は一ミリだって縮まりっこないだろう。 「おなかがすいた、と遠回しに催促しているのかい?」  駄々っ子に手を焼くふうな、ため息をつかれればつかれるほどムキになって指環をかじりまくる。恋の記憶が輝夜を呪縛してやまないのなら、いっそのこと指環とひとまとめに嚙みくだいてやりたい。  尊敬して慕っていた兄を、死してなお輝夜の中に居座っているから、という理由で(そね)む日が訪れるとは夢想だにしなかった。  黒々とした瞳が、驚きに揺れた。 「涙があふれてる。それは、なんの涙?」 「なんでもねえよ、ほっとけ」  そっぽを向くそばから朱唇が目尻に触れてきて、不覚の涙が吸い取られる。ときめくと同時に飛びのいた。ジョイスもこのやり方で慰めたことがあるはずと決め込んで、二番煎じなど御免だ──と、ひがみ根性を丸出しに。 〝ヒトをのさばらせるな〟。そう、でかでかと書いた板を掲げて、険悪な顔つきの一団がまた茶房の前の通りを行進していった。

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