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第85話
耳欠け病にかかっても患者のうちの何割かは自然に完治するらしい。最近、そんな噂がちらほらと聞かれるようになってきた。事実、そういった例が増えているなら、街中を溌溂と駆け回るソーンもきっと何割かに含まれるはず。
ヴォルフは自分に繰り返し言い聞かせながら家路をたどった。いつになくとぼとぼと、それでいて空中をふわふわと浮いているような気がしてならなかった。
恋している? 俺が恋をしているだって?
工房に帰り着いたとたん、つっかい棒を外されたようにしゃがみ込んだ。いつしか輝夜が心の中に住み着いてしまったのは確かだ、それは否定しない。だからといって惚れた腫れたと結びつけるのは、こじつけが過ぎるんじゃないのか……?
「ソーンのやつ、からかいやがって」
そうだ、茶目っ気を出したに決まっている。だが箱から煙草を抜き取れば上下逆さまに銜えるわ、マッチを擦る指に力が入りすぎて何本も駄目にするわ。やあい図星だ、と囃 し立てるさまが目に浮かんで頭を搔きむしった。
隠し金庫を開けて、獅子の横顔を象った印章指環を取り出した。ジョイスから贈られたものは外して、同等の価値があるこいつを嵌めろ。
そう迫った場合の輝夜の反応は想像がつく。すげなく断られておしまい、だ。だいたい、あっさり跨ってくるような無類のオトコ好きに恋するほど悪趣味ではない。
あらためて紫煙をくゆらし、揉み消すさいには煙草を輝夜に見立てて、ぎゅうぎゅうと灰皿に押しつけた。
もっとも、すっきりするどころか尻尾が鉤形に折れ曲がる。自分の気持ちに正直になったらどうだ、と冷笑を浴びせてくるように。
百歩……いや、千歩譲ってソーンは的を射てくれたと仮定して。ヒトを除く誰もが耳欠け病の脅威にさらされている現状では、好きも嫌いも二の次だ。
ヒト狩りが手柄を競い合っている、と囁かれているおかげで輝夜は買い物にいくのもままならない。だから、お裾分けと称して食料を差し入れにいくたびに、やや恫喝気味に拙宅へご招待申しあげる。
もっとも柳に風と受け流されるのが常だが、日参するのは義務というより純然たる楽しみだ。
今日届ける分の卵を入れた袋と、掛け時計を交互に睨む。あと三十分したら出かけよう。試験に臨むつもりで輝夜と相対すれば、もやもやするものの正体が真に恋情なのかはっきりするはず。
いざ、はっきりしたときは、どういうふうに行動すれば相思相愛の仲へと進展するのだ? いや、恋している云々を真に受けて仮定をもてあそぶことじたい暗示にかかった証拠だ。
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