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第86話

 思考は堂々巡りで、ぐずぐずしているうちに霧が出てきた。  季節の変わり目に天空が布ですっぽりと覆われたような、ひどい濃霧が発生することがある。今宵は、さしずめ秋の使者だ。  沖合のほうから霧の塊がつぎつぎと押し寄せてきて、やがてガス灯の周囲がぽつんぽつんと橙色(だいだいいろ)ににじんでいる以外は、首都全体が乳白色に塗り替えられた。老練な馭者(ぎょしゃ)でさえ馬車を出し渋る夜は、夜目がきく獣人にしても外出を控える。  ──待っている……。  (こいねが)う響きを宿した声が耳に甦り、椅子を蹴倒して立ちあがった。すでに付近一帯は霧の波に呑み込まれて、隣家の塀ですらろくすっぽ見えない。  こんな気象条件のもとでは、ヒトが出歩いても霧にまぎれて。  全身に震えが走り、うなじの飾り毛が逆立つ。輝夜が馬鹿のひとつ覚えのように口にした「待っている」。  それは、あたり一面が白い(とばり)に閉じ込められる夜のことを指しているんじゃないのか。八方ふさがりの状況を打破すべく計画を練り、それを実行に移すに適した時を。  説得に頑として応じようとしない依怙地さ、あの妙に落ち着き払った態度を考えあわせると辻褄が合う。輝夜は今、この瞬間にも行動を起こしているのかもしれない。俺にひと言の挨拶もなしで、行方をくらまそうとしているのかもしれない。  茶房に確かめにいくか、しかし行き違いになった場合、危惧したことが現実のものとなる恐れがある。苛々と歩き回り、すると霧に裂け目が生じたような密やかさで人影が浮かびあがった。  ヴォルフは瞳を凝らすなり窓に飛びついた。錠を外すのももどかしく開け放ち、身を乗り出すと、今宵の霧はとりわけ層が厚い。髪の毛も尻尾も、たちまちじっとりと湿った。 「あっちもこっちも真っ白けななかで散歩か。あんたも、たいがい酔狂だな」  不安な気持ちを押し殺して軽口をたたくと、シッ、と遮られた。薄ぼんやりとした指がマントのフードをずらす。白皙の(おもて)には、凛呼さと切なさがない交ぜの複雑な表情が浮かんでいた。 「ケジメをつけるのがせめてもの誠意──違う、後ろ髪を引かれるのが怖かった。今まで、ありがとう。いてもヴォルフ、きみの幸せを願っている」    どこに、と囁かれると同時に窓枠を乗り越えようとしたものの、透き通った微笑みに胸を衝かれて固まった。  やっぱりだ、案の定だ。悪い予感ほどよく当たる。輝夜は俺すら惜しげもなく捨てて、どことも知れず去ってゆくつもりなのだ。それにしても……、 「ヴォルフって……よりによって今、きちんと名前を呼ぶか? あんたって、あんたは本当に……」  性質(たち)が悪い。柔和な物腰に反して冷酷で、(ほしいまま)に俺の心を食い荒らしてくれる。宙ぶらりんの状態でこれっきりだなんて、冗談抜きに恋をしていたとしたら、半永久的に恋わずらいに苦しめ、と言っているのと同じだ。

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