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第87話

   窓越しに胸倉を摑んで引きずりあげた。 「って、どこに行く気なんだ」  だんまりを決め込まれて尻尾が宙を()ぐ。琥珀色の双眸に散る、翠緑色の斑点がぎらぎらと輝く。際限なく欲しがるのに応えてきた点、ひとつ取っても俺には知る権利がある。 「虚仮(こけ)にしっぱなしで消える? 都合よくいくかよ、はっきり言え」  ヒト発見、と集まってきかねない隣近所の耳を警戒してひそひそと、だが語勢を強める。輝夜は爪先立ちの恰好で弱々しくもがくと、伏し目がちに白状した。 「……隣国の、ムストワの山奥にヒトの隠れ里があると風の便りに聞いた。国境の山を越えて、そこへ向かう」  口ごもりがちに打ち明けたあとでマントの端をめくってみせた。寝袋をくくりつけて、膨らんだリュックサックを背負っているあたり、その道のりは険しいものになると覚悟の上で出立したことが窺えた。  ヴォルフは唸った。無策のしわ寄せを受けた結果、もはやヒトにとってハネイム王国は猛獣がうようよいる檻に等しい場所。安住の地を求める気持ちは理解できるが、不確かな情報にすがって〝隠れ里〟をめざすなど無謀きわまりない。  だいたい、ひと口に山といっても優に四千メートル級だ。言い換えれば一か八かの賭けに出るほど追いつめられているのだ。 「五分待ってろ。いいな、動くな」  水筒、小刀、蠟燭、缶詰──等々。道中、役に立ちそうなものを手当たり次第にリュックサックに放り込む。編み上げ靴の紐を結び終えると、四年余り過ごした〝自分の城〟を感慨深く見回した。  ここに越してきた当初は肌着を洗濯するにも大騒ぎだった。のんべんだらりと王宮で暮らす獅子族の異母兄たちと違い、つけ耳作りの道具から寝台に至るまで、すべて自分の稼ぎでそろえた。だが所詮、物は物。残らず置いていこうが惜しくない。  窓から霧の中にすべり出ると、自分の胸を叩いてみせた。 「非力でトロい、あんたの護衛を務めてやる。じゃ、出発するか」 「遊びにいくわけじゃないんだ。ひとりのほうが気楽だ、よけいなお世話だ」    さよならするのはつらいけれど──口を衝いてこぼれ落ちた真情は(かそ)けし音の連なりにすぎず、豹の聴覚をもってしても聞き取れなかった。 「行くと言ったら行く。止めても無駄だ」  そう断言してリュックサックを背負いなおした。〝ハネイム王国の第八王子〟と決別するふうに、ばたんと窓を閉める。それから輝夜と改めて向かい合った。 「俺はあんたのそばを離れない、絶対に」  ソーンとは窓ガラスを隔てて、輝夜に対してはじかに鼻の頭をこすりつけて誓う。尻尾が独りでに持ちあがり、幾世代にもわたって細胞にすり込まれてきた獣人以前の記憶をたぐって文字を綴る。  ニホン語で『愛』──と。

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