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第89話
「あんた、こいつの初号機が試験飛行でどうなったか忘れたのか。飛び立ったはいいが墜落して、俺が助けに駆けつけたとき兄貴は虫の息。爆発炎上するまぎわに担ぎ出せたことじたい奇蹟だったんだぞ」
ジョイス・プレジュバ=ラヴィア王子死す──その報が首都を駆け巡ったさいの衝撃が、昨日のことのように甦ったのだろう。マントをはためかせて細やかな肢体がよろめき、フードの陰からぜえぜえと息が洩れた。蒼ざめた顔がちらつき、だが眼差しは不屈の闘志にあふれて力強い。
「ジョイスの二の舞になるかもしれない、だけど空を飛んで国境を越えるのは利点が大きい。ひとつには陸路を行くより断然、距離を稼げる」
固い決意に満ちたその言 を聞いて、翻意を促すのは巨岩を動かすこと以上に難しいことだと思い知らされた。ヴォルフは頭を搔きむしった。同行を願い出て、ごり押しまがいに了承を取りつけたからには一蓮托生というやつだ。
肚をくくると背中が妙にくすぐったい。見れば尻尾が機体を掃きあげている。不安材料がごまんとあっても、わくわくしている面がなきにしもあらずなのだ。
「わかった、わかりました、逃避行と洒落込むならド派手にいきたいもんな。世界の果てまでお供するさ」
うそぶき、勢いよくハッチを開いた。機の後部は貨物室という構造上、長身でたくましいヴォルフにとって操縦席は狭苦しくて、さしずめちっぽけな箱だ。それでも羅針盤に似た計器やら、天井を何本も走るパイプやら、すべてが物珍しい。
「何が幸いするかわからないね。ジョイスに操縦法を習っておいたのが役に立つ」
寝物語に──という、くだりは咳払いで濁すと輝夜は操縦席におさまった。ぶっつけ本番で飛行艇を飛ばすとあって動きが硬いとはいえ、睦言を交わしながらイロハを教わったさいの記憶をたぐって手順をおさらいしているのだろう、ひとつひとつの計器に触れる。
そして、ぎゅっと目をつぶって深呼吸をすると顔つきが一変した。勇んで罐 に取りつけられたクランクを回す。
「罐が十分熱くなって、水蒸気が噴き出して、離陸準備が整うまでのあいだ歌でも歌って緊張をほぐすこと……とジョイスが言っていたっけ」
ヴォルフは生返事を返した。尻がむずむずするのは断じて怯えているせいではない、武者震いだ。ちなみに飛行中は随時、罐に石炭を焼 べる役を仰せつかった。
バルブという装置を回すと弁が開閉する仕組みで、それで水蒸気の量を調節するというのだから責任重大だ。
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