89 / 129

第90話

「正直に言って、一緒にきてくれて心強い。迷惑だろうけれど、きみには甘えたい」 「今さらだ。好きなだけ、甘えな」  飛び立ったが最後、出たとこ勝負だ。まかり間違えば、ふたり仲よくあの世行き。どちらからともなく見つめ合うと、言葉では言い表すことができない想いが堰を切った。抱きしめ合うには窮屈なのを(あた)うかぎり密着することで補い、先を競って唇を重ねた。  ついばみ、離して、またついばむ。たとえ百万回くちづけても辟易するどころか、あと一回、あと一回、と欲しくなるだろう。  ソーンの洞察力は侮りがたい。ヴォルフは今さらめいてそう思う一方で、たぐり寄せた舌を吸った。恋情に裏打ちされているからこそ、命がけの逃避行に喜んでつき合う気になるのだ。 濡れ羽色の髪を鼻でかき分けて、思いの丈を込めて囁きかける。 「輝夜、俺はあんたに惚れ……」  ピー! と(かま)がけたたましい音を響かせて語尾をさらい取った。計器の針が十段階あるうちの最高値を示した。古生代の生き物が(なが)い眠りから覚めたところを思わせて、飛行艇が震動した。  ヴォルフはぶすったれて、いったん機から降りた。蛇腹式の扉を開け放つ。機体にはコロが、舟形の車輪には歯止めをかましてある。歯止めをどかして後ろから渾身の力で押すと、飛行艇はしずしずと格納庫から出た。  霧はまだ深い。立て札に〝発着場〟とある煉瓦敷きの空間の四囲を、前照灯がおぼろに照らし出す。  ヴォルフは座席に戻ってベルトを締めた。大博奕(おおばくち)を打つのが吉と出ると信じて、さあ、出発だ! 「向こうへ押すと上昇する、手前に引くと下降する。方向を変えるときは回す」  集中力を高めるように、輝夜はぶつぶつと唱えながら操縦桿を握った。ひとつ頷くと、パイプとつながっているペダルから恐る恐る足を浮かせた。  しゅうしゅう、ごうごう、と鼓笛隊が演奏をはじめたようなにぎやかさのなか、飛行艇が浮きあがった。  巣立ちのときを迎えた若鳥さながら、翼がひと揺れ、ふた揺れする。ややあって格納庫の屋根を越える高さまで上昇した。だが、操作を誤りしだい落下するのは必至。その横顔は干からびた粘土細工のごとく引きつり、輝夜は十指の関節が白っぽくなるほど一心不乱に操縦桿を動かす。格納庫がだんだん背後へと遠ざかっていく間中、がくんがくんと機体が上下する。 「おわぁああ!」  ヴォルフは叫んだ、叫ばずにはいられなかった。運悪く新米の馭者(ぎょしゃ)が手綱をとる辻馬車に乗り合わせたばかりに天井に頭をぶつけて、たんこぶができたことがあるが、あれなどかわいいものだ。  王立学院でいっとう高い建物は中央の棟だ。鐘楼を戴くそれが霧のヴェールを裂いて忽然と姿を現したときには、食い破るほど唇を嚙みしめていても絶叫が迸るありさまだった。生きた心地がしないとはまさにこのことで、豹の耳はぺたりと寝て、尻尾は反対に絶えずばたつく。宙吊りになっている感覚に胃袋がでんぐり返る。

ともだちにシェアしよう!