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第91話

 機体を努めて水平に保ち、慎重に操縦をつづけるにつれて輝夜はコツを摑みはじめた。めざす隣国ムストワは真北に位置する。方位磁針によると東に十度あまりずれていて、針路を修正したのにともなって、うまく風を捉えた。高度も速度もぐんぐんあがる。 「視界が悪くて残念だなあ。きっと素晴らしい眺望が広がっているよ」  弾んだ声が鼓膜をくすぐった。ヴォルフは勇を鼓して、ただし片目ずつ、うっすらとあけてみた。いやしくも豹族たるもの木登りは得意でも、最高到達点はせいぜい地上十数メートルだ。乳白色に塗り込められた眼下を透かして見ると、窓明かりはマッチ箱の大きさだ。ふぐりがきゅっと縮こまり、それでも不思議と爽快……いや、痛快だ。  豹の耳が一転してピンと立つ。三国一の威容を誇る王宮の塔さえ遙か高みから見下ろすとは、傑作じゃないか。王室お抱えの占い師だって、変てこな乗り物が天翔(あまがけ)る未来など視えなかっただろう。しかも操縦士は疫病神扱いのヒトで、はみ出し者の第八王子が助手を務めるとくる。 「俺は十分、楽しんでる。空中散歩って状況を満喫してる」  あんたと一緒だからだ──は、わざと省く。と輝夜が信じてやまない〝ヒトの隠れ里〟。そこへ彼を無事に送り届けることが最重要課題で、それ以外のことは棚上げにしておくのが賢明だ。  シャベルを摑み、打って変わって鼻歌交じりに石炭を掬う。(かま)の蓋をずらすと、 「パイプは高温になっている。火傷しないよう気をつけて」 「尻尾が焦げたあとに注意しても意味がねえだろうが!」  うっかりパイプに触れたばかりにチリチリになった先っぽの毛を憮然とつまみ取った。  ともあれ、うれしい誤算といってよいほど順調なすべり出しだ。縹渺(ひょうびょう)と後方の景色の大半を占めるのは海で、馬蹄形に切れ込んだハネイム王国の玄関口は、もはやただの点になり果てた。  黒髪が隙間風にそよぎ、操縦席の背もたれにゆったりと上体をあずけたさまは離陸時とは別人のようだ。ヴォルフは思った。輝夜は、ヒトが策を講じて病原菌をばらまいている、という悪意に満ちた説が定着して以来、微かな物音にさえびくつくまでに神経をすり減らしてきたに違いない。 〝浮力〟〝推力〟という、ふたつのペダルを軽やかに踏み分けるあたり、穴蔵から這い出したような解放感を味わっているのだ。

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