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第97話

 安心するのは早い。ヒトの耳の下のくぼみに指をあてがってドキリとした。おかしい、脈搏が伝わってこない。  世界がガラガラと音を立てて崩れ去っていくような気がした。まさか、本当に、そんなことがありうるのか……?  尻尾が狂おしく(みぎわ)を掃き、痛感した。もしも輝夜と死に別れることがあれば、その瞬間、生きる意味はおろか自分の命そのものも価値を失うだろう。  と、細い喉に絡んだ鎖が肌をすべった。それは鳩尾が微かにへこんだためだ。がばっと伏せて、豹の耳を胸元に押し当てる。そのうえで神経を研ぎ澄ませると、規則正しい心音がちゃんと聴こえた。さっきは自分自身の鼓動がうるさくて、それに邪魔されたのだ。 「チクショー、焦ったじゃねえか。人騒がせなやつのせいで」  太い息を吐き、すこぶるつきに優しい声で毒づいた。  水辺はひんやりする。ぐんにゃりと身を預けてくる輝夜をおぶって、その場を離れた。藪をかき分けてしばらく行くと、陽だまりに出た。  そっと地面に横たえておいて、墜落現場に取って返す。リュックサックをはじめ、役に立ちそうなものを回収してから泉に寄った。水筒を満たして戻る間に輝夜は起きあがっていたが、まだ朦朧(もうろう)とした状態にあるとみえて、虚ろな眼差しを向けてくる。  輝夜がもたれかかりやすいように、とヴォルフは胡坐をかいた間に彼を座らせた。泉水をついだ水筒の蓋を朱唇に添える。ところが水の飲み方を度忘れでもしたのか、すする気配すらない。  手っ取り早く口移しで飲ませることにして、即座にそうした。舌で唇を割りほぐす一方で水をそそぎ込む。  あんたが死神につれていかれたらと思うと、ぞっとした。喉を潤してあげるのにまぎらせて囁き、ほとんど涙ぐみながら幾度となくそれを繰り返した。  脳のどこかの回路が遮断していたのが復旧したといったところか。煤ぼけた唇が(つや)めき、さまよいがちだった視線がヴォルフをしっかりと捉えた。途端に薄紅(うすくれない)を帯びつつあった頬が、くすんだ。  輝夜は、精悍な顔へと恐る恐る手を伸ばすと、居住まいを正した。 「ひどい目に遭わせてしまって謝っても謝りきれない。痣だらけで痛むだろう、ごめん」 「屁でもねえさ。つか、ハラハラドキドキ迫力満点で楽しかったよな」  今すぐ輝夜の(なか)挿入(はい)って命拾いした歓びを分かち合いたい、という誘惑に駆られた。ヴォルフは、そうする代わりに茂みへ向かい、蔦をひと摑みぶん小刀で切り取った。  三つ編みに結って、ちぎれたリュックサックの肩紐を()げ替える。その背後で葉ずれにかき消されがちな呟きを耳が拾った。

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