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第111話

「水を飲んだふり、眠ったふりをして泳がせておけば案の定こそこそと逃げだしおって。獣人に(くみ)する()れ者め。戻れ、戻って多淫の性質(たち)にふさわしいやり方で里人に尽くせ」  豹の耳がピンと立ち、(まなじり)がつりあがる。尻尾が持ちあがって、白刃が一閃したように(くう)を切り裂く。 「ゲスどもの親玉のくせして威張りくさりやがって。ここでは多数派なのをいいことに、弱いものいじめに走るって点じゃ、てめえらが敵視する獣人と目くそ鼻くそだ」  せせら笑いを浴びせ返すと、輝夜が手をつなぎなおしてきて首を横に振った。  ヴォルフは、しぶしぶ口をつぐんだ。(はらわた)が煮えくり返る心理状態を反映して、尻尾がぴしぴしと岩壁を打つ。(おさ)を滝壷に突き落とし、浮かんできたところをまた沈めて、ヒィヒィ言わせるくらいのことはしてやらないと怒りの持って行き場がない。  水しぶきを弾きながら、節くれ立った指がヴォルフを示した。 「得体が知れない流行り病が隣国のハネイムで猛威をふるっていると聞きおよんで、里のものは一斉に快哉(かいさい)を叫んだぞ。おごり高ぶる獣人への天罰だ──とな」  ヴォルフが一歩踏み出せば、牽制するように言葉を継ぐ。 「ヒトでも獣でもない出来損ないめ。そこの青年は貴様の命乞いをするに際して、進んで身を投げ出したのだ」  あわてて長に向かって目配せをしてみせるさまが、暴露するのはやめてほしいと、ほのめかす。ヴォルフは石筍を何本か踏み折りながら、輝夜に向き直った。 「本当か、俺のために人でなしどもに、いたぶられるなんて馬鹿な真似をしたのか」  輝夜は、はんなりと微笑(わら)った。 「きみが無事なら何をされても安いものだよ」 「ふざけんな! 俺が嬲り殺しにされるより、あんたが犠牲を払うほうがつらい。ふたりで幸せにならなきゃ意味がないだろうが」    驚きのあまり声が出ない様子で、幸せ、と朱唇がわなないた。指環が輝いていたころの癖で、しなやかな指が喉元に触れたのを境にして輝夜から醸し出される雰囲気が変わった。喩えるならそれは、虚無感という糸を織り込んだ(ころも)を脱ぎ捨てたような変化だ。 「灼熱の地でも極寒の地でも、彼とともにある限り楽園だ」  勝利を宣言するようにきっぱり言い切れば、水音にかき消されがちにもかかわらず誇らかな余韻を残す。  長は小馬鹿にした顔つきで(あごひげ)をしごくと、一拍おいて皮肉たっぷりに両手を打ち鳴らし、 「ヒトと獣人はどだい相容れない。遠からず自然の摂理に背いたことを悔やむに決まっているが、持っていくといい。売れば路銀の足しになる」    ずだ袋を投げてよこす。それには保存食と、ふたり分の厚手の上着が入っていた。さらに七色に輝く絹の布も。

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