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第114話

 ザマアナイ、と苦笑がにじむ。街育ちの自分にとって山の暮らしは正直、過酷だ。とはいえヒトより先に音をあげるようでは、彼を護るもへったくれもない。 「サボってる場合か、おら、立て」  自らを奮い立たせて、だが情けなくも手斧にすがって腰をあげるそばから上体がかしぐ。おまけに耳が、すさまじく痒い。  植物の汁あたりにかぶれたのか、それとも虫に刺されたのか。搔きむしると血の気が引いていった。ごっそりと毛が抜けて、はらはら、ひらひらと舞い散る。  指に絡みついたやつはその倍の本数で、蛇でもまともに摑んでしまったようにあわてて払い落とした。金色を帯びた耳の毛は、落ち葉の中にあっていっそう鮮やかだ。  風が下草をそよがせ、ひと塊の毛をさらう。ヴォルフは恐る恐る腕をあげた。生唾を吞み込み、一、二の三で耳をさわってみた。  心臓が跳ねた。何かの間違いだ、そうだ、さわり方が悪かった。そう自分に言い聞かせ、今度は慎重に指を這わせるにつれて、風船がしぼむように全身から力が抜けていく。  それでいて頭の一部は妙に冷めていて、来るべきものが来ちまった、と呟きがこぼれ落ちた。  耳は、耳自体は豹族本来の形を保っているが、ハゲて肌が露出した箇所の感触は、さしずめ鶏冠(とさか)だ。  木洩れ日がまたたき、なのに雨雲が広がりゆくふうに視界がだんだん黒みがかっていく。潜伏期間、その四文字が繰り返し脳裡をよぎる。  耳の毛が抜けるのは、耳欠け病の典型的な初期症状。こっそり体内に侵入し、静かに機が熟すのを待っていた病原菌が、時至れりとばかり大っぴらに活動をはじめたのだ──。  ぎくしゃくと立ちあがり、駆けだした。ずば抜けて敏捷な豹族にもかかわらず、瞬く間に足がもつれて木の根に蹴つまずいた。呆気なく(くずお)れて不思議に思う。個人差があるにしても発症したとたん、こうも急激に悪化するものなのか? 少なくともソーンは自宅に軟禁状態に置かれて以降も、しゃべって歩いていた。  平衡感覚がおかしい。四つん這いになるのさえひと苦労で、おまけに肘も膝もたちまち砕けるありさま。鼓動が叫ぶ、輝夜、輝夜、輝夜、輝夜……っ! 「さっきは駄々をこねて、ごめん。手伝いにきたよ」  ()()を縫って輝夜がこちらへやってきた。おそらく炭鉱が置き忘れていった手押し車が、逆さまに転がったまま朽ちるに任せている。若木が底板を突き破ったそれが邪魔したことも手伝って、ピンとこなかったふうだ。  直後、落ち葉をがさごそ言わせて這い進む姿を捉えて、切れ長の目が大きく見開かれた。 輝夜は立ちすくんで一瞬後、走りだした。 「怪我をしたのかい、じっとして!」  手押し車を飛び越えるさまが、黒一色に塗りつぶされつつある視界の中でたったひとつ、くっきりと像を結ぶ。  ヴォルフは強張りがちな顔を懸命にほころばせた。なんでもない、心配するな。豪快に笑い飛ばしたつもりだが、ひゅうひゅうと息が洩れるにとどまった。  風に吹きさらわれた耳の毛は、遠く遠く、空の彼方へと運ばれていった。ヴォルフの命の欠けらを乗せて──。    

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