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付き合う前の本音飲み

二人の関係は少しずつ慣れてきていた。 伊勢ちゃんはたまに俺のことを「あんた」と呼ぶようになった。家に来た時は、「いいすか?」と断りながらも好きなタイミングで勝手に冷蔵庫を開けるし、酒が回ってくると、「あーだめだ今日酔うなー」とかなんとか言いながら、許可もとらず俺の布団に寝転ぶ。 無遠慮な振る舞いも、俺はただ嬉しかった。俺のことを好きになってほしい、なんて高望みをするつもりのない俺には、それだけで十分だったからだ。 「そういえば俺ー、こないだスーパー銭湯みたいなとこで、初対面の男の人に口説かれたんすよ」 「……なにそれ」 その日、酒を飲んだ伊勢ちゃんが「そういえば」から切り出した話は、浮かれてグラスを傾けるペースを間違えはじめていた俺の手を止めるのに、充分な威力を持っていた。俺は一度持ち上げかけたグラスを置き、布団の上に寝転がっている伊勢ちゃんを見る。 「どゆこと?」 「いや、そのまんまです。なんかあ、サウナ入ってたら、隣のお兄さんがやけに近付いてきて。あ、ふつうに若い人で、二十代かな? 黒髪の短髪の、なんか爽やかな感じのふつーの人だったんですけど、なんだろうと思ってたら『どこに住んでるんですかー?』みたいに話しかけられて」 「……うん」 「そんで住んでるとことか、バイト先とかそういう話して……」 「え? そいつに教えたの?」 「いや、ざっとですよ。駅の近くですみたいな感じで」 たとえノンケだろうとそんなに露骨にアピールされたら分かるだろ頼むから危機管理してくれよ、と、叱るように誠実に、言ってやりたかった。到底言える資格などないのにもかかわらず。少し不機嫌になってしまった俺の前で、伊勢ちゃんはなんにも気付かずに話を続けている。 「そんでなんか感じいい人だなーと思いながら話してたら、俺の友達の先輩だってことが分かったんすよ。それはまじで偶然なんですけど」 「へー……」 「そんでまあ、仲良くなって、そしたらいきなり『俺の家すぐそこだから来ない?』って言われて」 「おー……」 「俺さいしょ普通にいいんですか、とか言ってたんですけど、途中からなんかおかしいなーと思って。そしたら『なんか好きになっちゃったかも』って急に言われて」 「……どうしたのそれで」 「怖かったんでやっぱいいですって言って逃げてきました、あとから友達に聞いたらその人やっぱゲイらしくて」 「……ふーん……」 物語は、いくぶん平和な終焉を迎えた。俺はとりあえず胸を撫でおろし、もう一度顔を上げ変な熱をこめないように気をつけながら口を開いた。 「危ねぇよそれ」 「ですかねー?」 「どーすんの、家ついてっていきなりヤられたら」 「まあ、そん時はそん時ですよね」 ようやく作り上げた平常を保って重要な問題について語ったというのに、酔っ払った伊勢ちゃんはずいぶん悠長に笑っている。その危機感のなさに、思わず苛立ってしまう。 本当に、思ってもいないのだろう。その肌の白さや幼い表情や、腰回りの感じが男にとって性的な対象であるだなんて。ましてや俺が、目を奪われているだなんて。 今だって、伊勢ちゃんが寝返りを打つたびシャツがめくれてあらわになる、細くて白い腰元や背中ばかり隠れて目で追っているのだ。 「……気持ちわりぃだろ、ゲイなんて」 そんな自分を戒めるように呟く。伊勢ちゃんはなおもころころと布団を転がりながら、天井を見上げている。何かを考えているようだ。 「そうですかねぇ……んー……」 「え? 伊勢ちゃん、抵抗ないの?」 思わず鳴りだした胸をどうにか留めながら、おそるおそる問いかけた。伊勢ちゃんは天井を見つめてばかりで目が合わないので、変に力の入った表情を見られずに済んでいる。 「まあ……男の人好きになる気持ち自体は、分かる気がするし」 「え?」 「なんていうか……男の人のことを好きになるのって別に変なことじゃないと思うんですよねえ」 伊勢ちゃんは相変わらず大の字に伸び、手足のさきまでぼやぼやとふやけてしまった状態で、ぼんやりとその重要すぎる言葉を口にした。 戸惑った俺は、からからになった口をビールで一度流す必要があった。海外産の好きなビールは苦みの中に若干の甘さがあるが、この状態では味わうこともままならない。ようやく潤った口でどうにか吐き出したのは、気のきかない相槌だった。 「……そうなの?」 「あ、だからって別に、俺がゲイだとかそういうわけじゃないですよ? ただ、なんか訳もなく偏見持つのってなんか嫌なんですよね」 「ふーん……」 喉を潤したアルコールが、早くもぐるぐると体内を回り始めた。今ならきっと、赤くなっているのも酒のせいに出来るだろう。思考が止められないのも、決定的な言葉を引きずりだしたいのも、酒のせいに違いない。 「じゃあさ」 「はい」 「もし、男の人に告白されたらどーすんの」 「どんな人ですか」 「ふつーに……仲良い人とか」 「えー。んーそうだなー」 伊勢ちゃんは身体を横向きにして、俺を見ている。とらえどころのないぼんやりとした目に、狡猾でいやらしい俺はどう映っているのだろう。 「その人のこと、人間的に好きだったら、真剣に考えたいですよね。性別とか関係なく、好かれんのはやっぱ嬉しいじゃなすか」 「そうか……」 「あーあと、顔がかっこいー人ならまだ抵抗なくいけるんじゃないですかねー」 伊勢ちゃんはケラケラと無責任に笑っている。これだからノンケと神経質な話題を交わすのが嫌いだ。「いける」はダメだよ。この話においてはあまりにも多くの意味を孕みすぎている。 「イケメンだったらキス出来る?」 「いや出来るでしょー、キスくらいは全然」 「じゃあセックスは?」 「え?」 「セックス」 俺は思わず調子に乗ってしまった。同じ調子で「余裕です」と言われると思っていた。むしろそう言われたら、ああこの話はすべて冗談なんだなあと受け流すことが出来ただろう。しかし伊勢ちゃんは、ぼんやりと天井を眺めたまま考えこんでしまったのだった。 「えー、セックスかー」 「ん……」 「やべぇなそこまで考えたことないっすね」 「ま、まあそうだよな……俺も考えたことないけど……」 「えーでも実際どうなんですかね。ハマる人はめっちゃハマるって言いますよね」 「そ、そうなの?」 「らしいですよー。なんかノーマルだったのに一回セックスしたら戻れなくなったみたいな話聞いたことあります」 「……どこで聞くんだよそんな話」 「え、飲みの席の噂話で」 どうせ酔っぱらいの戯言だ。それを真剣に受け止めてしまう伊勢ちゃんにも問題がある。伊勢ちゃんはなおもころころとシーツに寝返りを打ち、笑っている。俺はビールを煽り、暴走気味な自身を脳内で静かに非難する。 「あーでもぉー、イケメンで、まじで超絶テクの人にされて超気持ち良かったら俺もハマるかもしんないっすねー」 酔っぱらいの戯言だ、どうせ。 分かっているのに頭が真っ白になった。それから真っ赤になった。こたつに入り直し、下半身を毛布の中に埋めた。 「ふーん……」 「まあそんなきっかけないですけどねー」 「いや……わかんねぇよ、どこにそういう人いるか分かんないし」 「はは、そういや俺けっこうゲイの人にモテるんですよね」 伊勢ちゃんは勢いをつけて身体を起こした。横になったことで血液が回ったらしい。顔はさきほどより更に赤くなっていた。 「……そうなの?」 「んー。さっきのサウナで声かけられたりとかもそうだし、高校ん時に友達に告白されたこともあったし」 「まじ?」 「女の子に告白されることなんかほとんどないのに、男の人にはやたら言われるんすよねーなんでだろ、はは」 伊勢ちゃんは赤い顔のままビール瓶に手を伸ばし、コップに注いでいる。そしてくっと飲み干し、さきほどよりもさらに無防備に笑っている。伊勢ちゃんはいつでもこんな風に、無防備にかわいらしくいやらしく振る舞うのだ。ときどき不安になってしまう。 「ほんとさあ……気をつけた方がいいよ」 「なにがですか?」 「いや……その、言い方悪いけど、狙ってる奴もいるだろうからさ、まあ……からだ、とか」 「あー」 「伊勢ちゃんはあんまり危機感とかないかもしんないけど……変なことされてからじゃ遅いし自分の身は自分で守んないと……」 言いながらとてつもない罪悪感に苛まされた。そして情けなくなってしまった。俺に何が言えるというのだろう。いつでも伊勢ちゃんの周りをうろついては、そういう目線でじろじろ見ている俺が一番危険じゃないか。 伊勢ちゃんは頷きながら俺の話を聞いていた。フェードアウトしていった俺の言葉を最後まで聞いたあと、すこし首をかしげるような姿勢で、笑った。 「そんなこと言われたの初めてですよ」 「いや……だってさあ」 「さすがですね高岡さん」 「え? なにが」 「高岡さんイケメンだからさらっとそういうこと言っちゃうんすよねー、さすがモテる男は違うわー」 伊勢ちゃんは冗談めかして俺を指さしている。分かっている、いつもの冗談だ。伊勢ちゃんは酔うとすぐに、俺のことをイケメンとかモテるとかチャラいとか、ありもしない事実で囃すのだ。どう答えればいいのか分からなかった。変に力がこもってしまって、いつものようにふざけて返すことができなくなっていたのだ。 先程の伊勢ちゃんの台詞を思い出していた。そういう人なら、キスするくらい余裕だ、なんならセックスだって、と、目の前の人は言っていた。 「高岡さんほんとにイケメンですよね」 アルコールのお陰で、目の奥にはほのかに違う色が隠れている。言葉も仕草もいつもに増して隙だらけだ。ますます目が離せなくなった。俺も酔っぱらいだったのだ。

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