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ねぼすけさんこっちを向いて

(付き合いたて、同棲前) 夢が叶ったとき、こんなにも実感がないものなのか。それとも俺はまだ夢の中にいるのか。数日前から、ぶよぶよしたゴムの上を歩いているように現実感がない。本当に本当に、こんなにもどうしようもなく好きな子が相手でなかったら、もう少し冷静でいられたのか。 「……このあと俺んち来る?」 「あーいや、すいません俺これから用事あって」 「……これから? もう日付変わんのに?」 「友達が12時までバイトらしいんで、その後そいつんちで宅飲みするんです」 授業が終わったあとも、近所の中華料理店でメシを食ったあとも当然一緒にいられると考えていた俺はどうやら思い上がっていたようだ。自らを制するために、くらげの和え物を奥歯でぐっと噛んだ。まったく普通のことなのだけれど、恋人同士になったところで伊勢ちゃんには伊勢ちゃんの生活があり、「当然」なんて存在しないのだった。 「……今からそいつんち行くの」 「そっすね」 「……ふーん、明日の1限遅刻すんなよ」 「うっわ、自信ねー」 皿に残っていた餃子に箸を伸ばしながら、伊勢ちゃんはけらけらと笑っている。つい先日彼氏という立場になったばかりの、まだまだどうしようもなく他人でしかない人間が、行くなよ、と、ここぞとばかりに彼氏面して言えるはずもないので、仕方なく代わりにひねり出した言葉だったが、笑ってもらえてやや救われる。 一度帰宅してシャワーを浴びるという伊勢ちゃんを、自宅アパートの下まで送ってその日は解散。俺んちのシャワー使えばいいじゃんとか、あんま飲みすぎるなよとか、変なことされそうになったら逃げろよとか、帰り迎え行くから電話してとか、ていうか早くアパート引き払って俺んち来てよとか。言いたいことはたくさんありながら、どれも言うべきではないと判断した。そして遅刻するなとえらそうに言ってしまった手前、自分もまっすぐ帰宅するといつもより早く布団に入り、きちんと起きて1限へ向かった。 「あー、伊勢? そういや俺も返信きてねぇなー」 しかし案の定と言うべきか、翌日の1限に伊勢ちゃんの姿はなかった。連絡しても返信はなく、昼休みに学食や目につく場所を探しても見つからない。それとなく共通の友人に聞いてみたところ、皆同じような状態だと分かった。 別段、めずらしいことでもないのだ。伊勢ちゃんは出席率がいいわけではないし、きっと家で寝ているだけだろう。でも、もしかしたら具合を悪くしているとか、暑い部屋の中でぶっ倒れているとか、まだ帰ってきていないとか。 沈んでいく日とともにネガティブが加速して、授業後伊勢ちゃんの自宅アパートへ飛び込んだ。部屋の鍵は開いていた。玄関に靴もある。しかし部屋の中は真っ暗で、一気に嫌な想像をした。 「びっくりしたー……」 部屋に駆け込み電気をつけると、ベッドの中の伊勢ちゃんと目が合った。たった今まで眠っていたのだろう、寝ぼけた顔に驚きを張り付けて、身体はまだ眠ったまま、首だけを持ち上げて呆然と俺の顔を見ている。どうやら、状況が把握できていないらしい。 「ど、どうしたんですか」 「……急にごめん。授業こないし、返信ないし、電話も繋がらなかったから」 「あー……もうそんな時間すか、すいません寝てました。あっそうだ充電すんの忘れてそのまま寝たんだ……」 「よかった……焦った。なんかあったんじゃないかと思って」 「え、『なんか』ってなんですか」 「急性アル中とかさ。それから……まあ……」 アルコールの海で溺れて、一緒に飲んでいた奴に『なんか』されて傷つけられて、どうしようもない状態なんじゃないか、とか。そんなネガティブな妄想を、正直に伝えたら笑われるだろうか、そんなわけないと呆れられるだろうか。 「とにかく不安になった」 「……すいません」 寝起きだからか、俺の異常な剣幕に気おされてしまったのか、伊勢ちゃんはいやに素直だ。最低な想像が夢幻であったことに安堵した心に、伊勢ちゃんのかすれた「すいません」が染みる。ベッドの隣に座りこんで、伊勢ちゃんの顔をもっと近い場所から覗き込んだ。 「……なんか最近気づいたんすけど」 「ん?」 「高岡さんって……」 「なんだよ」 「意外と心配性?」 伊勢ちゃんは、もう一度ベッドにもぐりこんで、布団を鼻のあたりまで引き上げてから言う。目しか見えていないけれど、笑っているのが分かったので恥ずかしくなった。 「……そうだよ。めちゃくちゃ心配性だよ。俺のかわいい伊勢ちゃんになんかあったんじゃねえかと思って一日中気が気じゃなかったよ」 「ははっ! 小学生の親じゃねんだから!」 「……こういうのウザイ?」 「いや、別に……ウザくは……」 「伊勢ちゃんはやく俺んちきて」 「今日ですか?」 「今日っていうか、これからずっと」 「ずっと?」 「うん。ずーっと」 せめて、どこで何しているか分かればもう少し冷静でいられるんじゃないか。朝起きたとき隣にいてくれたら、会話なんかなくてもすれ違っていても、平穏でいられるんじゃないかと願わずにはいられない。 「今なら三食栄養満点の手料理も付いてくるから」 「あーそれ魅力やばいですね」 「だろ? だから早く来いよ」 きっと喧嘩もするだろうけれど、安心感という土台が固まった上で起きるすれ違いなら、乗り越えられる気がする。好きだよといつでも伝えられる環境なら、嫌いだと言われても平気だ。 伊勢ちゃんの返事がないのは、俺の一人よがりな考えに呆れているからだと思っていた。しかし、布団をめくって顔をみてみると、その頬は少し赤い。 「……なに?」 「い、いや」 「なに。言いたいことあるなら言って」 「……ないです」 「ある顔してるじゃん」 「なんすかある顔って!」 すぐに布団を奪われ、また顔を隠されてしまった。伊勢ちゃんは布団にくるまったまま、ぼそりとつぶやく。 「いや……いまの……いまの高岡さん、ちょっと、男らしかったなと思って」 言われてから気づいた。昨晩はあんなに、失言をしないようにと気を張っていたのに。シャワーのこと飲み会のこと引越しのこと、飲み込んだ言葉がキャパシティを奪って、今では意識より早く「来いよ」なんて本音が漏れてしまうほどの余裕のなさ。しかしそれは、必ずしも悪いことではないらしい。 「へえーえ! 伊勢ちゃんは男らしいのが好きなのかあ」 「いや、なんつーか、たまたま今のが、なんか」 「良かった?」 「い、いいっつーか……まあ……」 「俺、伊勢ちゃんの前だと情けないとこばっかだけど、ほんとはもっとかっこいいよ。だからもっと好きになってもらえるようにがんばる」 こんな気持ちで頭や頬に触れたら、とたんにがまんできなくなりそうだ。だから布団の中に手をつっこんで、伊勢ちゃんのてのひらを探す。見つけたてのひらは、じんわり温かかった。子どものような体温に落ち着いて、ベッドにこてんと頭をのせる。 「かっこいいとか自分で言うんすか……」 「自分でガンガン言っとけば、そのうち刷り込まれて本当にそう思えてくるかもしんないじゃん」 「洗脳じゃないですかやめてくださいよ」 呆れたように笑って、やめてとこぼして、それでも手は握り返してくれる。些細なことがこんなにうれしい。重ねたてのひらから伝わる安心感で眠くなる。いつか、同じ布団で眠ることが当たり前の日常が訪れても、今と同じ気持ちでいられたらいい。

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