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潜 ③

 (かづき)の日常に新しいルーティンワークが増えた。朝、島の砂浜で、獣医の伊達(だて)くんによる健康観察を受けること。  その間、友一郎は誰に頼まれたわけでもなくゴミ拾いの手を止め、少し離れたところに見張り番のように立っている。潜は砂の上に敷かれた防水シートに横たわって体温を計られている最中、友一郎に手を振ったが、友一郎はそれに気づくと狼狽(うろた)えたように横を向いてしまった。 「ご協力ありがとう」  伊達くんはいつものように潜に礼を言うと、青魚の鱗のように光沢のある四角いバッグの中に潜の血液のサンプルをしまい、そして言った。 「ところで、潜くん。この間の血液検査の結果、君、やや脱水症の()があるみたいなんだけど、もしかして何か人間の食べものを食べていない?」  伊達くんは潜の正面に膝を揃えて座り、黒ぶち眼鏡の奥からまっすぐな視線を向けてくる。痛いほどの視線を潜は受け止めかね、目をそらした。すると今度は友一郎と目があった。友一郎はゆっくりとした足どりで、こちらに近づいてくる。潜は採血の(あと)を抑えているアルコール綿を指で押し込みながら、 「食べてないよ」  と言った。本当は、島の漁師達から焼き魚をもらって食べた。何も味付けをしていないから大丈夫だと、漁師のおじさん達は言ったのだ。  この頃は、潜がいつも同じ時間に顔を出すものだから、漁師のおじさん達はわざわざ潜のために魚を一尾か二尾、焼いておいてくれる。誰にも内緒だぞと釘を刺されているから、いくら相手が伊達くんでも、白状するわけにはいかない。 「どうした?」  友一郎は潜の横にしゃがみ、俯いている潜の顔を覗き込んだ。 「潜くんが軽い脱水症にかかっているんです」  潜が何か言う前に伊達くんが言った。 「脱水症?」 「ええ。人魚も脱水症になることがあるんです。周りを海水に囲まれて暮らしているのに、意外だと思うでしょう? でも人魚とて陸上の人間(われわれ)と身体の構造は同じ。水分摂取のために海水を飲めば、体内のミネラルバランスを崩してしまいます。塩分の摂りすぎで身体が浮腫(むく)んだり、腎臓を傷めたりしてしまうんですね。ですので、人魚は基本的に水を飲みません。水分は、食物から得るのです。つまり魚の身に含まれる水分をですね、摂っているわけです。ですから、少し食べる量が減ると、すぐに脱水症になってしまいます。見たところ、潜くんはちゃんと栄養を摂れていて、体調も悪くなさそうなのですが、血液検査の結果ではですね、ええ、軽度の脱水症なんです」  大きな身振り手振りをまじえて一生懸命に話す伊達くんに、友一郎は驚いたようで、細い目を少し見開き、口をぽかんと開けたまま、こくりと一度うなずいた。うなずいただけで、何も言わない。伊達くんは左右に大きく開いた腕をそのままにして、しばらく微動だにしなかったが、やがて友一郎が何も言わないのにしびれを切らして言った。 「今の数値だともう、食生活の改善だけでは回復は無理なので、積極的にお水を飲んでもらわないといけません」 「え!」  潜は思わず大声を出した。友一郎はそれでも無言をつらぬいている。 「やだぁー、水なんか飲みたくないよぉ」 「じゃあ点滴です。水族館に連れていくとまでは言わないよ。僕らのステイ先に、医療器具はそろっているから。さあ、お水を飲むのと点滴、潜くんはどっちがいいかなー?」  点滴はもっと嫌だった。注射や採血ならすぐに終わるけれど、点滴は針を刺されたまま、長い間じっと我慢していなければならない。 「わかった。水、飲めばいいんでしょ」 「オーケー。じゃあこの水筒をあげよう。氷を沢山入れといたから、キンキンに冷えていて美味しいよ。あと、これはご褒美」  伊達くんは潜の目の前に水筒とイワシをつき出した。潜はしぶしぶ伊達くんから氷水の入った大きな水筒を受け取り、イワシをぺろりとひと呑みにした。

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