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潜 ⑨

 軽い脱水症と、頬に軽い火傷。それだけで済んだ。与えられたリンゴジュースを一気飲みした(かづき)に、まさかそれが飲みたくてあんな所で一晩ねばっていたんじゃないよな? などと漁師のおじさんが冗談を言うので、その場にいた全員が笑った。  その前にも、潜を助けにきた人々は大笑いしていた。潜が助けてもらって一番に礼を言った相手が友一郎(ゆういちろう)で、礼を言われた友一郎が即座に「俺は何もしていない」と(こた)えたからだ。  空調のきいた建物の中に運ばれ、のどの渇きを潤し人心地ついた今になって、潜はみんなに悪いことをしたなと反省した。助けてくれた多くの人たちに、まずはお礼を言うべきだった。ひょっとすると、治療の付き添いに友一郎だけを指名したのも良くないことだったかもしれない。とくにミヤコちゃん……昨夜(ゆうべ)、潜のためにウクレレを弾いてくれた女の子だ……は、潜の看病をしたいと強く申し出てくれたのに、そのときはまだ暑さで意識が朦朧(もうろう)としていた潜は、「友一郎がいい!」とほとんど駄々っ子のように言い張った。  人魚の世界で孤立している潜にとって、生き残る(すべ)は人魚に対して好意的な人間達の多くに可愛がってもらうことだった。これまで出会った人間達は誰もが潜に優しかったが、その優しさは、潜がまんべんなく愛想をふりまき続けたからこそ、潜への親切な行いにつながった。  誰か一人に執着したら、その人との別れが自分の終わりのとき。 『潜、お前は見た目が可愛くないんだから、せめて心だけは可愛くして、みんなに可愛がってもらわなきゃいかんよ』  誰に言われたのだったか記憶にないが、その忠告が自分をここまで生かしてきたと、潜は思う。  それなのに、と、潜は彼の手を握る温かな手をぎゅっと握りしめた。どうした? と問うような視線を友一郎が向ける。自然と潜の口の端はくるんとまるまって上がる。友一郎がそばにいてくれたらそれで充分だという気がしてしまう。 「明日はいっしょに遊べる?」 「まずは休め」  友一郎はつないだ手をそっとほどくと、潜の額からタオルを取り上げ、冷たい水でしぼってまた額にのせた。心地よさに潜は目を細めた。  まるで大きなクラゲの背中のような、ひんやり冷たくてぷよぷよとした触感のベッド。身体には肌が乾燥しないようにと、水をたっぷり含ませた布が掛けられている。すべてが快適だが、もっとも素敵なのは、手を握ってとお願いをしたら、すぐに言うとおりにしてくれる友一郎がそばにいることだ。  この室内には潜と友一郎の二人きりで、ただ空調だけが静かに風を送る音をたてている。伊達(だて)くんは用事があると言って出かけてしまったし、留守番をたのまれた彼の部下達も、潜が友一郎と二人きりにしてほしいと言ったら部屋を出ていってくれた。 「寝な」  友一郎の言葉に、潜は首を横に振った。この状況でどうして眠れるだろう。この心地よさを、もっと堪能していたい。できれば明日、友一郎と秘密の入り江に行くまで、この満ち足りた気持ちを絶え間なく感じていたい。  そう思っていたのに、気づけばずいぶん時間が経ってしまったようで、窓から入る光が黄色く弱くなっていた。 「ん?」  と、薄暗がりのなか、友一郎が潜に顔を寄せた。 「オレ、眠っていたの?」  と潜は聞いた。 「あぁ。よく寝ていた」  友一郎はそう答えて微笑んだ。  両目を閉じて完全に眠りこけるなんて、いつ以来だろうか。 「あーあ、なんかもったいないことしちゃったなぁ」  潜はがっかりしてため息をつくのに、友一郎はくっくっと笑った。 「まるで子供だな」  友一郎は潜の耳の辺りを手で撫でながら言う。潜は布の下で膝を立てて、もじもじと動かした。いやに生殖孔(スリット)(うず)く。耳の輪郭をなぞるその指先で、スリットにも触れて欲しい。潜はそう思って、友一郎の手に自分の手を添わせ、布の下に彼の手をそっと引き込もうとした。だがそのとき、パチリと音がして、天井の照明が点いた。 「いやぁ、遅くなってごめん。潜くん、気分はどうだい?」  伊達くんだ。彼は友一郎に帰るよう促し、友一郎も言われた通りにした。彼は帰りぎわ、昨夜と同じように「明日な」と「おやすみ」を言った。  たくさん眠ってしまったことだし、今夜は一睡もしないだろうと潜は思った。友一郎がそばにいてくれる時に起きていて、夜になってから眠るのだったらよかったのに。  伊達くんは、まだ潜の体調が心配だし、ラボのスタッフ達も色々あって疲れているから、今から潜を海に帰すことはできないと言った。今夜はこの安全な場所で過ごす。海とは違いここでは確実に明日がくるとはいえ、眠らないでいるには退屈すぎる。 「さて、そろそろプールに移るかい? この建物は古い宿泊施設をリフォームしたものでね、とても大きなお風呂がついているんだ。そこを保護した海獣用のプールにしたんだよ」  伊達はそう言って潜の身体に掛けられた布を勢いよく()いだが、潜の脚の間を見るとぎょっとした表情で布をへその下まで戻し、咳払いをした。 「たぶん、疲れがたまっていたんだろうな。男にはよくあることだよ、うん」  それは違うと思ったが、潜は言うのは控えた。友一郎と一緒にいると、時々身体が変になる。もし、友一郎のことを想いながらスリットをいじったら性器の先から妙な液体が出たことが伊達くんに知られたら、そんな病気をしているのに海に帰す訳にはいかないよ! などといって、このラボで休む期間を延ばされてしまうかもしれない。 

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