26 / 53

潜 ⑩

 伊達(だて)くんいわく「とても大きな」屋内プールは、海に比べたらちっぽけでしかも浅かった。深夜、(かづき)は暇をもてあまし、水面にただぷかぷかと浮いていた。眠気はさっぱり起こらなかった。あまりに長く深い昼寝をしてしまったせいだ。けれども、あれは心地いい眠りだったと潜は思った。なにしろ、両目を閉じてもトンネルが迫ってこなかったのだ。  潜の心の中には深いトンネルがぽっかりと空いている。それは彼にとって都合の悪いことをすっかり()み込んでくれるという良い面もあるが、その反面、油断すると潜自身をも呑み込もうとする。  両目を閉じると追ってくるトンネルが怖くて眠れない。子供のころ、潜は伊達くんの父親に訴えたことがあるが、人魚が熟睡しないのは当たり前のことだといって、聞き入れてもらえなかった。  人魚とはそういうものだといわれても、人間に保護される前は、ちゃんとぐっすり眠れた時も確かにあったはずだと潜は思った。だが、保護される前の記憶はなく……たぶんトンネルに呑まれてしまったのだろう……、人魚だって熟睡が必要だと証明できなくて、諦めざるをえなかった。  お夜食にするといいといって伊達くんがプールに放してくれた小魚たちが、潜をよけて泳いでいる。ちゃんと食べないで明日の健康観察に引っ掛かってしまえば、ここから出してもらうのを延期されかねない。だが、生きているものが潜ひとりきりよりは小魚でもいた方がマシだと思い、食べずに生かしている。  片目を(つぶ)って半分だけ眠るなら、トンネルは潜を呑もうとはしない。しかし、トンネルから漏れてくる音はときどき聴こえてくる。ざあざあと迫る波音、数々の悲鳴、子供を呼ぶ母親の叫び声。 「お父さん、なんでお母さんを置いてくの?」  幼い頃の自分が言う。瞑っていた目を開けると、トンネルは消え去り、音も聴こえなくなった。  友一郎(ゆういちろう)が見ていてくれれば、眠ってもトンネルは現れない。そういえば、友一郎も夜はあまり眠れないのだと言っていた。彼も人魚だったらよかったのにと潜は思った。もしそうだったら、夜は互いに抱き合って水に浮かび、交代でひとりが眠り、もうひとりが見ていればいいのだ。  ようやく夜が明けた。スタッフが来る前に潜は大急ぎで小魚を全部食べた。まもなく伊達くんが来て、潜の健康観察をした。異常なし。だが、潜を海に戻すのは砂浜の女の子人魚たちを全員診終ったあとだと伊達くんは言った。 「えーっ! オレもう海に帰りたいよぉ」 「まあまあ。一晩おとなしくしていたご褒美を用意したから、もう少し我慢して」 「ご褒美?」 「じゃーん、どうぞお入りください」  伊達くんが両手で出入り口をさすと、友一郎が両手にバケツを一つずつ提げて入ってきた。 「潜くん、君、丸一日以上もじっとしてたから、体じゅうが垢まみれでしょう。だから彼に頼んで垢すりをしてもらうことにしました」  友一郎のあとから伊達くんの部下達も入室した。彼らは昨日潜が寝かされた、クラゲのようにぷよぷよとしたベッドを運び込み、タイル張りの床に置いた。  そそくさと伊達くんたちが出かけていったので、プール室内には潜と友一郎の二人きりになった。  友一郎は持ってきた空のバケツでプールの水を()み、もう一つのバケツに入れて持ってきたタオルを水に浸した。それから彼は潜にベッドに横になるよう言った。潜が言われた通りにすると、友一郎は潜の体に大きな布をかぶせ、またバケツで水を汲んできて、それを布の上からばしゃばしゃとかけた。 「やり方は別になんでも、潜が痛がらなければいいと言われた」 「うん」 「顔だけはガーゼで」  と、友一郎はガーゼを水でしぼって指先に巻いた。潜の顔に友一郎がその指を近づけ、試すようにそっと潜の鼻筋をなぞった。ガーゼが黒っぽく汚れる。 「すごいな。模様の色の垢が出るのか」  などと、友一郎は感心している。  ガーゼに包まれた指先を友一郎はしげしげと見ると指から外し、バケツの水で洗ってからまた指に巻き、こんどは潜の目の下にあてた。目頭から眼窩(がんか)にそってゆっくりと目尻にむかって撫でるように拭くのを三回繰り返し、次に上まぶたを同じく目頭から目尻にむかって拭く。両目を拭きおわると口の周り、そして両の頬に、鼻の両脇。額からこめかみを撫でおろして(あご)先へ。 「きもちいい」  潜はうっとりと目を細めた。  顔を終えると耳たぶと首すじだ。首すじをタオルで拭きおろされるのが妙にくすぐったくて、潜は布の下で体をくねらせた。 「そこもっとこすって」  ねだると、友一郎は潜の言った通りにしてくれたが、 「変な声出すなよ」  と呆れ顔で言う。 「変な声って? きゃはっ!」  強めにこすられると本当に変な声が出た。

ともだちにシェアしよう!