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友一郎 ⑬

 唇と唇が触れ合いそうなくらい顔を近づけても、それ以上はない。肌と肌をすり合わせ密着させても、それだけで終わる。(かづき)はそれらの行動の意味するところを、何ひとつ知らないからだ。友一郎(ゆういちろう)が次の一歩を踏み出さない限り、ずっとそのままだろう。  そのままがいいのだろうと思い、友一郎は潜を放した。潜はまた浅瀬に入って遊びはじめた。今日の海は少し荒れているが、沖との間をいくつもの大岩に遮られた、この箱庭のような秘密の砂浜は、波がとても穏やかだ。透明な海水の中で、潜が小魚にイタズラをしているのが、よく見える。  潜が小魚を追いまわしている間に、友一郎は砂浜を端から端まで見てまわった。南をのぞく三方を、切り立った崖に塞がれている。どうやら、(おか)からここへ降りることはできなさそうだ。北側の崖から数歩離れた砂上に、一本の線を描くように貝殻や海藻の切れ端やゴミが並んでいて、満潮時にはこの砂浜のほとんどが海中にしずむことを表している。  空からは容赦なく日光が降りそそぐが、それを遮るものは何もない。何か日除けになるものを持ち込めないだろうかと友一郎は考えた。簡易テントのようなもの。カヤックに乗せて運べるくらいの大きさの物はあるだろうか? カヤックの船尾側のハッチを開けて、友一郎はその内部の広さを確かめた。 「もう帰る?」  背後から投げかけられた問いは、「もう帰りたい」あるいは「もう帰って」の意に聴こえた。じっさい振り向いてみれば、潜は眉間に深いしわを寄せていた。笑うときにはくるんと丸まる口角の横に、心もとないすじが刻まれている。今にもわっと泣き出しそうな表情だ。  友一郎は二、三度うなずき、ハッチカバーを元に戻した。そして、波打ち際につっ立っている潜に歩み寄る。 「どうした?」   友一郎が聞くと、潜は力なくうつむいてしまった。 「すまん。俺は嫌なことをしたよな」  首を横に振る潜に友一郎は手を伸ばしたが、潜の頬に指先が届きそうなところで留めた。 「嫌じゃなかった。けど、オレ……オレは人魚だから……しかも男の人魚だから……気持ち悪いって思われるのかな、って、思った」 「思うって、俺がか? そんなこと、思ったことはない」 「本当に?」 「ああ、本当に」  潜の手が、下ろしかけていた友一郎の手を受けとめた。その手は指の間に水掻きがあって、友一郎の手よりも大きくて、指が長い。関節のシワの中まで真っ黒な手のひらは、冷たくて柔らかい。  友一郎は潜の手に指を絡めたまま、手の甲を下に向けた。手のひらに潜の手のひらをのせて、指を開く。潜もパッと指を開いた。墨を塗ったように黒い手の甲と指たち。指と指の間をつなぐ水掻きは色が淡く、薄く延ばしたパン生地のような不思議な手触りだ。指先の厚い爪は漆黒で、日光を浴びて艶々と輝いている。 「お前は綺麗だよ、潜」  友一郎が言うと潜は首を小さく横に振った。  互いに相手の手を弄ぶことに、子供みたいに熱中する。それをしばらく続けていると、潜がふいに口を開いた。 「オレ、友一郎と触り合ってくっつき合うのが好きなんだ。でもこれって友だち同士でやることじゃないよねって思う。だって、オレは伊達(だて)くんとも(とおる)くんやミヤコちゃんとも他の誰とも、こんな風に触り合いたいくっつき合いたいって思ったことはないよ。友一郎だけがオレにとっては特別なんだ。こういうのはきっと友だちというのとは違っていて、なにか別の関係なんじゃないかな」  潜の問いに、友一郎はうなずきで応えた。 「友一郎もオレを特別だと思うの?」 「ああ。思うよ」 「本当に?」 「本当に」 「オレね、友一郎とはもっと先のことをしたい」 「もっと先?」 「触り合ってくっつき合うことのもっと先だよ。でも、そしたらオレの……男の人魚の、気持ち悪いところを見られてしまうかもしれないと思って、友一郎に気持ち悪いと思われてしまうかもしれないと思って、怖くなっちゃって、途中までしかできないと思った。そしたら友一郎も途中でやめちゃったから、やっぱり気持ち悪かったのかなと思って、悲しくなった」  そう言って引き結ばれた口の端が下がって、小刻みに震えた。 「すまん。そういうことじゃなかったんだ。俺もお前に見られたくなかったんだ。オレの気持ち悪いところ」 「なんだ、おんなじじゃん」  おどけて言った語尾がわなないている。友一郎は潜の青黒い下まぶたを親指でこすった。ぬぐいとったそばから、まぶたは濡れる。  潜はすんっと鼻を一度すすると、友一郎の手首を掴み一歩前に出た。 「続きがしたい。触り合ってくっつき合うことの続き。どうすればいい?」  人魚に特有のU字型にすぼまった瞳孔で、潜はじいっと友一郎を見つめた。 「うーん」  あまり渋ればまた泣かれそうだと友一郎は思った。 「嫌なら嫌って言えよ」  と、潜の顔に顔をよせた。唇と唇がわずかに触れただけで、少し離す。  潜の瞳孔がまん丸に見開かれた。キュィと嬉しそうな声をあげ、唇の端をくるんと丸め、歯と歯の間隔の広く開いた歯列を見せ、笑う。  その口にふたたび友一郎は口を押し当て、潜の口内に舌を入れる。驚いて逃げようとする潜の舌に舌を絡め、ちゅっ、ちゅっと吸う。青灰色(あおはいいろ)の背中に両腕を回し、身動(みじろ)ぐ体を硬く締め付けて逃さない。何度も角度を変えて、潜がおぼれそうな声をあげるまで口を吸った。  抵抗していた背筋から、不意にふにゃりと力が抜けた。仰向けに倒れそうな潜を、友一郎はしっかり抱き止めた。 「大丈夫か? 嫌だったか?」  友一郎が問うと、潜はしぱしぱと瞬きをした。ネズミ色の頬が内側からほんのり赤く染まっている。 「嫌じゃないけど、奇想天外、かな」  潜はそうつぶやくと、友一郎の肩に顎をのせ、背中を水掻きでぎゅっと抱きしめた。

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