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友一郎 ⑭(上)
「泣いたカラスがもう笑う」
潜 の短くなった後ろ髪に、友一郎 が手櫛 をとおしながら囁 くと、潜は不思議そうに首を少し傾けた。そんな表情がいとおしくて、友一郎はわずかに踵 を上げ、彼の額にも口付けた。潜は唇の端をくるんと丸め、キュイキュイと声を上げて笑った。すっかりいつもの陽気な潜にもと通り……のはずだったが。
友一郎は、元来た道を「送ってくれた」潜にかすかな違和感を覚えた。カヤック遊びの帰りに潜がついてくるのはいつものこと。また、潜が顔を水面から上げて両手を前につき出したままおこなう器用な平泳ぎで、しゃべりながらカヤックに並走してくるのもいつものことだ。
彼は友一郎の思いつき……二人のプライベートビーチに日除けのテントを持ち込むということ……を泳ぎながら聞いて、とても喜んでいた。喜びつつも、どこか、何かに急 き立てられているように見えた。
ただ、空が陰り風が強さを増し、波が高くなりつつあったせいかもしれない。友一郎がこの春にカヤックを漕ぐのを覚えてから今日までで、一番、海が荒れている。潜は単に、友一郎がカヤックを転覆させずに海水浴場までたどり着けるか、心配だったのかもしれない。
カヤックが浅瀬に侵入するよりも前に、潜は「じゃあね、また明日!」と言い、泳ぎ去っていった。彼は沖へ出るとき一度も友一郎を振り返らなかった。
暗闇の中、友一郎は枕元に手を伸ばし、ラジオの電源をオフにする。昼間は吹いていた風が止み、草木のざわめきや虫の声ひとつしない。
無音の室内に、友一郎が横向きになり、自分の左腕を枕にして目を閉じた。
ふと目を開けると、いつものように少し離れた所に大翔 の背中があった。
「来なよ」
友一郎はごく自然に声をかけた。すると大翔は寝返りを打ち、もぞもぞと友一郎の方へ近づいてきた。そして彼は上目づかいでいたずらっぽく言った。
「腕枕して」
「いいよ」
友一郎がそう言って大翔の方に腕を伸ばすと、彼はキュッキュッと嬉しそうに笑った。
「なんだ、お前だったのか」
小さくうなずく潜の目がまつ毛に縁取られているのが見えた。顔を彩る青黒い隈取りのような模様はないし、人間のようにパジャマを着ている。友一郎は親指の腹で潜の頬を撫でた。キュッ、キュワッと潜は喉を鳴らす。
肩と胸の間に心地よい重みを感じる。やがて窓の外がうっすら白んできた。
……などということは、起こるはずもなく……。
「永劫、起こらないな」
友一郎はつぶやいた。脇のあたりに、いつの間に入り込んだのか、タマじろうが丸くなって眠っていた。枕元ではスマホがブーブーと振動している。
人魚たちの健康観察をする伊達 を手伝いに海水浴場へ行ってみれば、潜の姿は見えなかった。健康観察があらかた終わったあと、伊達はタブレットを持ち、友一郎に大股で近づいてきた。
「今朝は潜くんが来ないな。居場所はわかってるんだよ、ほらここ」
タブレットの画面の一点を、伊達の指先が差す。画面にはこの辺りの地図が写しだされている。海水浴場の右手にある、島の輪郭の少し凹んだ部分。昨日潜が案内してくれた「二人のプライベートビーチ」だ。そこに潜 と示された赤い点がある。
「安全な場所ですよ」
友一郎が言うと、伊達は意外そうに目を見開き、黒縁眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「君にもこの島のことで、分かることがあるんだな!」
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