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潜 ⑬

 空を厚い雲が急速に覆っていく。(かづき)友一郎(ゆういちろう)の方を一度も振り返らず、まっすぐに沖を目指した。コッ、コッという呼び声はいまだ続いている。横暴な男人魚たちの群れ(バンド)がきたのだ。呼び声は「誰か居たら返事をしろ」という意味だろう。自分の縄張りを守らなければと潜は思った。  返事をしない代わりに、潜は息を吸い込み海底を目指した。肺の中の空気が浮きの役目をはたすため最初は脚力が要るが、深くもぐるうちに肺は水圧に押しつぶされ浮力をうしなう。  やがて海底に到ると、潜は砂をなめるように掠めて浮上する。肺を締めつけていた水圧がゆるむごとに回復する浮力が助けとなり、助走のスピードはぐんぐん速くなる。そしてついに潜は弾丸のように水上に飛び出した。  最高点で宙返り。海面に飛び込み、今度は浅いところで助走をつけて飛ぶ。正中を軸に回転し、着水時に派手なしぶきをあげる。体を水面に叩きつける衝撃で、自分の強さを誇示するのだ。 「この海域はオレの縄張りだ、うかうか近寄る奴は絞め殺してやる!」  鼻の奥を震わせ、キィィと高圧的に叫ぶ。潜の発した警告音は海中をものすごい速さで伝わり、この海域全体に響きわたったことだろう。  潜はさらにジャンプを繰り返した。そうしているうちに、威嚇(いかく)のためにしていた行動が、だんだん面白くなってきた。潜はなんどもなんどもジャンプした。最高点に達したときの、すべての重みから解放され、みぞおちの辺りがフワッと浮く感じ。腹や背中を思い切り海面に打ち付けるときの痛さ。急浮上する潜をよけてサッと進路を変える魚たち。自分の耳まで壊れかねないほど遠慮なしに放つ大声。そういったものが全部楽しい。  これでイルカと観客がいたらもっと楽しいのになと潜は思った。水族館でのショーみたいに、ジャンプするイルカのクチバシの上から、空たかくに舞い上がり、人々をあっと言わせるのだ。友一郎にも見せてやりたい。  遠くを例の海保のものではない巡視船が航行しているのが見えた。潜は巡視船にアピールするように空中アクロバットをきめた。    ついでに魚を二、三びき獲って小腹を満たし。潜は秘密の砂浜に戻った。心地よい疲れを感じながら、水を含んだ砂地に仰向けになる。そして歌をうたった。先ほど大声を出して騒いだおかげで喉がいい感じに温まっていて、声がよく伸びる。しかも三方を囲む崖に反響し、じっさいよりも美声に聴こえて気分がよかった。  うたうのにも飽きて波打ち際に浮いていると、バシャバシャと無遠慮な水しぶきが近づいてきた。 「オイ、いるなら返事ぐらいしろや!」  雷鳴のように腹の底に響く、野太いガラガラ声だ。潜は上半身を起こし、眉間に深いシワを寄せた。 「そっちこそ、警告が聞こえなかったのか。ここはオレの縄張りだ」  潜は立ち上がり胸を張った。偉そうなガラガラ声の男は潜よりも頭ひとつぶん背が高く、広い肩を分厚い筋肉に覆われていた。体の色や模様は女の子人魚のように薄く、下半身ばかり人魚っぽい黒色で、まるでタイツを履いた人間のように見えた。  そいつの背後から何人もの人魚の男たちが上陸してくる。その多くがガラガラ声のように限りなく人間に近い見た目で、肌の色は潜のような青灰(あおはい)色ではなく、人間の肌色の範囲内でそれぞれ個性的な色あいをしている。彼らは潜を人数で威圧するように取り囲んだ。 「はっ、こんなちっぽけな浜がボクちゃんの縄張りだと? これっぱかしで天狗になりやがって、まるでうぬぼれ屋のメスみたいな奴だな」  ガラガラ声が(あざけ)り、他の男たちがどっと笑い声をあげる。  潜は上半身の筋肉に力を込めた。普段はつるりと滑らかな青灰色の皮膚に筋が浮き、びきびきと太い血管が走る。口角を真横に引いて口を開け、鋭い牙のならぶ歯列を見せつけ、低い声で言う。 「この湾内全部がオレの縄張りだと言ってるんだよ。とっとと全員去りやがれ。さもなければその首へし折ってやる」  男たちはただの威勢のいいガキだと潜をあなどって、へらへら笑っている。ガラガラ声はちょっとお灸をすえてやるといった鷹揚(おうよう)なしぐさで間合いを詰めてくるが、かたや潜は遠慮や手加減をする気などいっさいない。喧嘩は初動が肝心なのだ。  潜は砂を蹴ってガラガラ声の頭上まで跳躍すると、軽く体をひねりガラガラ声の鼻っ柱めがけて肘鉄を打ち込んだ。ペキャッと音を立ててガラガラ声の鼻骨が折れた。巨体は豪雨に流されて崖から落ちる大木のようにあえなく仰向けに倒れ、真後ろにいた一人がまきぞえをくって押し潰され、周囲の数人があわてて飛びのいた。  まさか他の者と比べて小柄な潜が先に手を出してくるとは誰も思わなかったようだ。数秒ほど空気が凍りついたような沈黙が流れ、人魚たちの足もとで波がザブンとひかえめに寄せて返した。  誰も反撃してこないので、潜は正面につっ立っている赤銅色の肌の男に狙いを定めた。 「ふっ!」  赤銅色は怒ったフグのように頬を膨らませたが、混乱のあまり二の句を継げず「ふ、ふ、ふざ、ふっ!」とわめきながら潜めがけて拳を振りおろした。潜は赤銅色のパンチをいなすと数回ステップを踏み、赤銅色の股間の生殖孔(スリット)を蹴り上げた。  赤銅色が情けない悲鳴を上げ、両手で股間を押さえてうずくまる。ようやく我に返った人魚たちは怒号を上げて次々と潜にとびかかり、一対多の乱闘がはじまった。

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