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潜 ⑮

 友一郎(ゆういちろう)に話したところで、人魚同士のいざこざなど彼にはどうにも出来ないし、彼が沈痛な面持ちで心配してくれるこの顔の傷だって、元はといえば(かづき)の自業自得で負ったものだ。  潜はなにも事情を話すことが出来ず、ただ手放しでわあわあ泣いた。そんな潜を友一郎は引き寄せると、腕の中に抱きこんだ。最初はおそるおそるといった感じで背中に腕を回し、そしてじわじわと抱きしめる力を強めた。  しっかりと抱かれてしまうと、潜は今度は胸が後ろめたい気持ちでいっぱいになってしまい、いっそう泣けてきた。友一郎の手が潜の背中を優しくさする。彼がそうしてくれるのは、何も知らないからだと潜は思った。  卑怯もの! この卑怯もの!  潜は泣きながら心の中でじぶん自身を罵った。友一郎がほんとうのことを知ったら……潜が自身にただ興味本位で近づいてきただけの男の人魚達を、殺す気でぶちのめして、それの報いとして彼らの頭領から締め上げられたのだと知ったら、……こんな風に抱いてなんかもらえない。幻滅されるに決まっている。なのに本当のことを言わずに、自分こそが被害者のような顔をして泣きついている。実に卑怯千万だ。  何も知らない友一郎は、潜が泣き疲れてしまうのを見計らって、「ほら、立ちな」と言った。 「体じゅう乾いてるじゃないか。水に浸かろう」  友一郎は潜の手を引いて浅瀬へといざなう。潜はおとなしく従った。カサカサにひび割れた肌を海水に浸す。友一郎は首に巻いていたタオルで潜の顔についた砂や垢をやさしく拭った。とくに殴られて腫れた部分は指に巻き付けたタオルで慎重に撫でるように拭く。  心地よくて、潜は口の端を丸め、口を開けて笑った。その口内に友一郎は指を入れて奥までよく観察した。 「中まで切れてる」  まるで自分が怪我をしたかのように友一郎は眉をひそめて言った。 「伊達(だて)さんに診てもらうか?」  潜が首を横にふっても、友一郎はだからといって非難も追及もしない。それどころか、潜の頭をなで、前髪に手櫛をとおし、(くしけず)ってくれる。  うれしい、けれど、叱られた方が楽な気がする。そう思った潜の眉間を友一郎は二本の指でぐりぐりと揉み、左右に引きのばした。(あまね)にも同じことをされたが、友一郎にされると不思議と気分がいい。「周にも同じことをされたよ」と話したくなったが、がまんした。男の人魚のことなんか、友一郎は知らない方がいいのだ。  友一郎は海からあがると、潜に背を向けてずぶ濡れになった半ズボンをぬぎ、手でしぼった。彼は半ズボンの下に、(くるぶし)まである黒くて長くて肌にぴったりと貼りつく服も着ていて、遠目に見ると人魚のように見えなくもないけれど、か細い脚のラインや肉の少ないお尻はやっぱり人魚とは違うなと潜は思った。  潜は波打ち際に寝そべって水にうたれた。友一郎は潜のそばに立って空を見上げた。 「どうしたの?」 「いや、いいものを持ってきたんだが」 「いいものって?」 「いいもの。だが、この天気じゃあな」  つられ見上げた空は、灰色の雲が低く重たく覆っていて、雷が来そうだ。 「役には立たないが、……見たいか?」 「うん、見たい」  友一郎は舟の荷台から、細長いバッグを取り出した。それは海松色(みるいろ)の防水布でできていて、動かすと布がサリサリと鳴る。バッグの中身は、沢山の金属の棒が縫い込まれた大きな防水布だった。 「この赤い紐を引くんだ。やってみるか?」 「やるやる!」  言われた通りに紐をまっすぐ上に引くと、ポンッと軽快な音を立てて布がふくらみ、テントに姿を変えた。すごいすごいと潜ははしゃいだ。テントを見るのは初めてではないし、前々から興味があった。けれども、遠くから見るだけで触ったこともなければ中に入ったこともなかったから、思いがけずに二人用のテントを用意されて、とても嬉しくなったのだ。  二人はさっそくテントの中にもぐりこんだ。風がよく通るように、二つある外側の厚いドアは全開にし、内側の蚊帳をぴったりと閉じる。中は二人で横になるのに十分な広さがあった。  向かいあって寝転がり、風に吹かれて少し震えている低い天井を見あげた。 「トンネルみたいだ」  だが、目をつぶるとまぶたの裏に現れるトンネルのような恐ろしさはない。むしろ、安らげる場所だと感じた。  視線を天井から隣へと移すと、潜のことをじっと見つめる友一郎の視線とぶつかった。真剣なまなざしで、見られている。潜はわれ知らずに「あのね、」とこぼしていた。 「オレの心の中にはトンネルがあるんだ。先の見えない、真っ暗な深い穴だよ。それが、両目を閉じると見える」 「うん」  友一郎はうなずいて、潜の方に手を伸ばした。潜も、手をさしのべた。ぱちんと手のひらと手のひらが打ち合わされる。指と指をしっかり絡めてつなぐ。力強く結ばれる手。こんな風に手をつないだまま眠れるとしたら、きっとトンネルなんてこわくない。トンネルがオレを飲み込もうとしても、きっとこの手が引き戻してくれるだろうと思ったとき、潜はふと我にかえった。 「あ、こんな話つまんないよね。ごめん、くだらない話、聞かせて」 「いや、」  友一郎の返事が思いの外語気が強くて、潜は目を見開いた。 「それは、話してしまった方がいいやつだ。心の中に溜め込まないで」  本当に、話してもいいの?  そのとき、遠雷の低いうなりが聞こえてきた。大変だ! 早く友一郎を帰さないと。潜は飛び起き、急いでテントの外へ出た。空を見上げると、小さな雨粒がぽつんと頬を打った。

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