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潜 ⑯(上)
「明日の朝はちゃんと来いよ」
「うん、必ず行く」
約束を交わし、口づけも交わしたときにはまだ小雨だったが、潜 が元来た方向に泳ぎだすと、まもなく本降りとなった。潜は平泳ぎで海上の景色を眺めながら泳ぐのが好きだが、どしゃ降り雨は次々と飛んでくる棘 のようで、顔が上げられない。仕方なく、潜は雨から逃れるために水中へともぐった。
海底と海面のちょうど中ほどを泳ぐ。微かにコッコッコッと呼び声がする。男の人魚が仲間同士で呼び合っている声だ。これがあるから深いところにもぐるのは嫌だったんだと潜は忌々しく思った。
鳴き交わされる声の中には周 の声もまじっているかもしれないが、潜には聴きわけられないし、それができたとしても潜はけっして返事をしないだろう。
先ほど友一郎 に逢って、思いはいっそう強まった。自分は彼らの仲間にはならない、と。いくら同じ男の人魚だからといって、おとなしく彼らに従うことなんかない。同胞だなんて、彼らが勝手に言っているだけのことだ。
そう思うから、潜は周の言いつけを破り、友一郎を廃漁港まで送るために自分の砂浜を出てきた。
縄張りに戻ると、潜はもうだいぶ狭くなってしまった砂浜に腹這いになった。厚い雲から雨がざあざあと降るから、背中が乾く心配はない。波打ち際は、潮が寄せて返すごとに北の崖へと近づいていく。満潮になれば砂浜のほとんどが浅瀬の底にしずむ。砂浜にもっと奥ゆきがあれば、友一郎と一晩中一緒に過ごせるのだけどなぁ、と潜は思った。
雨足が弱まってきたころ、波をぱしゃぱしゃとかき分ける足音が近づいてきた。
「肌を雨にさらすのはよくないぞ」
わびしくふるえる、呆れか諦めの感情を含んでいるような、ささやき声。周 だ。トンネルの奥から亡者が呼んでいるみたいに思えて、潜は周の声が好きではない。
潜は素早く起き上がると、崖に背を向けて立ち、周に向き合った。
「命じたとおり、ずっとここにいたか?」
何と答えていいのか、潜はわからなかった。三日間ここで「謹慎」するようにと周から命じられたが、彼の命令をきく義理などないと潜は思った。だが、実のところ潜は今日はほぼ一日中ここにいて、ひたすら砂遊びをしていた。周たちが我が物顔で泳ぎ回っている沖に出たくなく、結果として周の言いつけを忠実に守った体 になってしまった。
潜は「はい」とも「いいえ」とも言えず、首を縦にも横にも振れないでいた。そんな潜に、周は唇の端を少し上げ、ゆっくりと距離を詰めてくる。
周は潜よりも頭ひとつぶん以上背が高い。闇のなかで周の目の瞳孔はまん丸に見開かれ、金色に光る虹彩に囲まれている。死の世界につながるトンネルのように虚ろな瞳からは何の感情も読み取れない。潜は両手を胸の前に縮めてぶるぶると震えた。「お前の命令なんかきくもんか!」と言いたいのに、「お、お……」と言葉にならない声しか出ない。そんな潜の顔に周は手をのばす。潜は思わずぎゅっと目をつぶった。
ぴたり、と額に指が触れた。人魚特有の厚く肉のついた柔らかい指先だ。
「お前のここは口よりも雄弁だな」
指はぐりぐりと眉間のシワを揉み、左右に引きのばした。ぶるっと背筋が震えた。親しみのまるで湧かない相手から、親しい間柄でしかしないようなことをされても、ちっとも嬉しくない。それどころか相手がいっそう不気味に思えてくる。
恐怖で体を小刻みに震わせる潜に、周はお構い無しに近づき、潜が抵抗できないのをいいことに、背中に腕を回し、抱き寄せた。潜の頬が周の胸に当たる。遠慮なしに周は潜を抱きしめ、後ろ歩きで数歩下がると、潜を狭くなった砂浜に押し倒した。
「な、なにするんだよっ!」
「番ならば当然することをおこなうだけだ。お前、こういうことは初めてなのだろう? 案ずるな。無理なことはせぬし、教え導いてやるから」
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