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友一郎 ⑰

 今にも泣きそうな顔をしていた(かづき)だったが、伊達(だて)の部下がご褒美の魚を差し出すとパッと表情を明るくした。何ごともなかったかのように、潜は魚を手でしっかりとにぎる。丸飲みするには少し大きい魚の頭を、わしわしと噛み砕く。鼻面にシワをたくさん寄せ、ガフガフグシャグシャとはげしい咀嚼音をたてながら魚肉をむさぼる。 『腹を空かせてるときのタマじろうみたいだ』  友一郎(ゆういちろう)は頬杖をついて、潜が食べるのを眺めた。気分の切り替えが速すぎるほどに速いところ。それは潜の美点のひとつだが、ことをうやむやにしてしまう原因にもなりそうだ、と友一郎は思った。  潜は魚をすっかり食べてしまうと、唇の端をくるんと丸め、大きく口を開けて笑った。そして友一郎の手首を、魚をにぎったときのように、ひしと掴んだ。友一郎は潜の好きなようにさせた。ぐいっと腕が引かれ、手のひらが潜の頬に押しあてられる。友一郎は潜の耳のあたりをこちょこちょとくすぐった。 「午後にまた話そう。プライベートビーチで」  友一郎は潜に言った。  潜の肩口に残された噛み傷を友一郎はこっそりと盗み見て、次に酷い怪我を負わされた若いメス人魚にちらりと視線を向けた。彼女の怪我は、明らかに集団暴行にあった(あと)だ。これが、いわゆるハーディングの結果なのだろう。それはオスの人魚がメスを交尾に誘うときのやり方だと、伊達から聞かされたことがあるが、「誘う」というより一方的な行為であるようだ。  彼女と同じ夜に潜はまた怪我をして、しかもさっきは何か友一郎に話したいようだった。潜はみずからもハーディングに参加したのだろうか。メスに受け入れてもらえなかった、あるいは、オス同士の競争にせり負けて、悔しかったのか。 『その可能性もあるが……』  と、友一郎は海に帰って行く潜を見送りながら考えた。もしかすると、潜自身がハーディングの対象にされたのではないか。だがオス同士でそんなことがあり得るのだろうか? 潜はオスの人魚にしては小柄だとはいえ、姿形はれっきとしたオスに見える。メスと見間違えようはない。だが、潜のあの不審な様子、何かを伝えたそうな様子は、どうしても気にかかる。  伊達に手伝ってくれと声をかけられて、友一郎はそちらに向かった。伊達は臨月の人魚の診察に取りかかろうとしていた。友一郎は伊達の指示で、他のスタッフと共にブルーシートを持って伊達と人魚のまわりを取り囲んだ。海開き後の海水浴場には、朝早くから観光客がうろついていて、興味深そうにこちらを見ている。そんな人々の好奇の目から、臨月の人魚を守る。 「子宮口がもう2センチも開いているよ」 「あとどのくらいで産まれる?」 「数日から数週間ってところかな」 「なんだ、それじゃ何もわからないのと同じじゃない」 「こればっかりは個人差があるからねぇ」  そんな、伊達と人魚のなごやかな会話がシートの内側から聴こえてくる。  臨月の人魚の診察が終わり、ブルーシートの目隠しを撤収した途端、小さな子供人魚が母親のもとにおぼづかない足どりで駆けてきた。母親とは似ても似つかない、濃い灰色の肌とくっきりとした濃藍色(こいあいいろ)の模様をもった男の子だ。この男の子はしばしば母親から邪険にされているが、まったく懲りることがない。  案の定、臨月の人魚はすがりつこうとした我が子の胸を手で思いきり突きとばした。子供は仰向けにひっくり返り、たちまち大声で泣きだした。  泣き声を聞きつけて、波打ち際から年老いた人魚がやってきた。全身の肌にシワがあり、胸乳(むなぢ)の垂れ下がった老婆の人魚は、男の子を腕に抱えると、まるでそうしないと孫が娘に殺されてしまうとでも思っているかのように、そそくさと海の方へ逃げていった。 「ギューイ、ギュイギュイギュイッ!」  子供人魚の悲痛な泣き叫び声が遠ざかっていく。そんな中、伊達は何も見ないし聞かなかったかのような動作でゴム手袋を脱ぎ、部下の差し出したゴミ袋にそれを捨て、「彼女に食べ物を」と指示した。  臨月の人魚は、目の前に置かれたボウルから小魚を一匹をつかむと、 「まったく、憎らしい子! サメのエサにしてやりたいっ」  と毒づいて、小魚を丸飲みにした。  メス人魚たちの群れ(ポッド)が海に帰っていく。臨月の人魚も仲間たちと行った。 「本当は、彼女を安全な場所に移したいんだ。もういつお産が始まってもおかしくないからね。だけど、この島で人魚を不必要にかまうのは禁止されているから。先日の怪我をしたオスの保護も、バレて苦情が入ったし」  ぼやく伊達の視線の先、遠い沖にはいつものように例の巡視船が浮かんでいる。 「彼らは人間によく似ている。けど、あれで一応は野生動物なんだ。自然のものは自然にってわけ。この健康観察を、僕は人魚のみんなのためにしたいと思っているのだけど、手続き上は調査研究のため。現状としてもそうだね」  伊達は両の手のひらを上に向け、肩をすくめた。

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