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潜 ⑰(上)
朝、潜 は周 の命令を無視して自分の縄張りを出た。両手を前にのばし、顔を水面に上げたまま、脚だけで水を掻いて進む。島の輪郭に沿って泳ぎ、沖に行き過ぎないように。沖には男の人魚たちがいるからだ。
島に生い茂る木々の葉の緑色は、より一層深みを増して、きっと触ったら固いんだろうなと潜は思った。ほんのわずかな、秋の気配。強い日射しがさんさんと降りそそぐが、そよ風の肌触りや空の色が、昨日よりも少し違っているようだ。
目の前をゆっくりと漁船が横切っていく。潜は口の両端をくるんと丸めた。とぷんと海中のごく浅いところにもぐり、ばた足で漁船を追いかけはじめる。ほどなく漁船に追いつくと、舳先 が海面を引き裂いてできた波に乗った。そうすると楽に進めるからだ。漁船は島の港にむかっている。潜はこんどは船から少し距離をとり、イルカのようにぴょんぴょんと浅いジャンプをして漁船の乗員の気を引こうとした。
「おはよう!」
潜はいつものように船の上の漁師たちに挨拶をした。ところが、誰も返事をしてくれない。潜は「聞こえなかったかな?」と思い、もう一度「おはよう!」と言ったが、船の乗組員は誰一人として、潜のほうを見ようとはしなかった。
どこに顔を出しても同じだった。数日前には食べ物を分けてくれさえした人たちが、返事すらしてくれない。唯一、「おはよう」と返してくれたのは徹 くんで、しかし彼ですら、
「ごめんね、今ちょっと忙しくて」
と顔をしかめた。邪険にされたというほどではないが、迷惑がられているような感じ。潜の脳裡に「そろそろ潮時 」という言葉が思い浮かぶ。
そんなとき、思いもよらない人が潜のほうに一瞥 をくれた。その人は、ほかの漁師たちが潜を歓迎してくれたときには全く興味がない様子で潜を無視した人だ。白髪頭で、顔はしわくちゃで、鋭い目付きのお爺さん。徹くんによれば、お爺さんは友一郎 の実のお祖父さんだということで、そう言われてみれば目元や横顔の輪郭が似ているように見える。
「そろそろ南に帰った方がいいんじゃないか」
友一郎のお祖父さんは言った。孫の友一郎と違って、なんて冷たいのだろう。潜は心臓が締めつけられる思いだったが、言われたことはあまりにも正論だし、自分の考えともぴったり一致するので、黙って水の中に沈むしかなかった。
縄張りに戻ってみれば、周 が腕組みして待ち構えていた。びくりと身をすくめたところ、挨拶代わりに蹴りを一発おみまいされ、潜は波打ち際を転がった。
「懲りない奴だな。なぜ私の命令を無視する」
周は鷹揚な足どりで近づいてきて、まるで砂浜に打ち上げられた海藻の切れっぱしでも拾うような仕草で、潜の髪を鷲掴みにして上向かせた。
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