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潜 ⑱

「おえっ、ぺっ、ぺっ、ぺっ」  (かづき)(あまね)の手を振りきり、口の中に手を入れて呑まされたものを吐き出そうとした。だが、腹が空き過ぎていたせいか、なにも吐き出せない。砂と水をすくい、めちゃくちゃに口に詰め込んで、べぇっと吐き出す。それを何度も繰り返して口を清めようとした。  肩で息をしながらふり仰ぐと、周は立ちつくしたまま潜を見下ろしていた。周は眉間にシワを寄せ、憐れんでいるとも悲しんでいるとも取れるような表情を浮かべている。まただ。彼はみずから潜にひどいことをしたのに、我こそが被害者である、という顔をする。 「またオレが悪いっていうのか!」  潜は叫んだ。口の中が砂でざらつくのにもかまわず、まくし立てる。 「オレはお前なんかになにも頼んでないのに! 魚なんか自分で獲れるし、お前らが沖を占領しなければ、食いっぱぐれやしないんだ。それに、ツガイってなんなんだよっ。オレはお前なんかとツガイになるなんて言ってない。お前が勝手に言ってるだけだろ。なのにオレにしつこく構ってきて。ここから出ちゃいけないとか、人間に良い顔するなとか、ぜんぶぜんぶ、なにもかも勝手なんだよ!! オレはお前に命令される筋合いなんかない!!」  周は無言で手を振りかぶった。潜はまた殴られると思い、両手で頭を守った。衝撃に備え、ぎゅっと目をつぶったが、周の手は潜を殴らずに、頭の上にぽんと置かれた。 「躾の効果が出てきたな。出会ったときのお前は口だけの男ではなかったのに、今はどうだ? 威勢よく吼えたところで、私が少し手を上げれば従順になる。間もなく目配せだけで(こうべ)をたれ、なんでも言うことをきくようになるだろう」  周は潜の頭に手を置いたまま、しゃがんで潜の目を正面からじっと覗きこんだ。 「お前は憐れなやつだ、可哀想なやつだ。父親から折檻してもらえず、母親に甘やかされて育ってしまったから、こうして大人になってから恥ずかしい思いをしなければならない。お前、(つがい)など要らないといきがっているが、同胞にお前と番になりたい者などいない。すでにお前は頭が足りないうえに常識もない、野蛮なやつだと思われているよ。可哀想だから私がお前の番になってやったのだ。皆はこの私を、さすが我らが頭領は慈悲深いと賞賛し、(あが)めている」  周は潜の頭の|頂《いただき》から手を下にすべらせ、頬を撫でて肉を揉むと、ぎゅっとつねりあげた。 「私と出会えてよかったな。お前がこれまで独りで生きてこれたのは、ただの偶然にすぎない。お前のように身のほど知らずでわがままで愚鈍なやつには、どこにも寄る辺はない。ずっと独りでいては、近いうちに一人さびしく惨めに死ぬ運命だった。だが、私がお前の父親のかわりにお前を立派な海神(トリトン)にしつけてやるし、危険から守ってやる。眠るときはぐっすり眠れるように抱いてやる」  よかったなぁ、と微笑む周の目は笑っておらず、金色の虹彩の真ん中、ぽっかりと空いた虚ろな瞳孔は、なんでも飲み込んでしまうトンネルのようだった。周の感情のない目に誘われるように、潜の心のトンネルから言葉が引き出されて潜の口を動かす。 「お父さんなんか、威張り散らすだけで、肝心なときには、役立たず」  心の奥底に沈んでいたどす黒い怒りがこみ上げてくる。こんな感情は自分には要らないと思っていたのに、身を任せてしまえば周をなんとかできると思えば、暴れるに任せてしまいたい。これではお父さんと同じだという、自制の声が虚しく響いて消える。潜は頬をつねる手を叩き落とした。 「役立たずのくせに威張るな!」  意外にも周が怯んだ。だがそれはほんの一瞬のことで、彼は素早く立ちあがり、潜の頭を蹴り上げた。とっさに潜は両腕で防いだが、周の蹴りの力はものすごく、潜は浅瀬まで飛ばされて水の中にひっくり返った。 「口のきき方に気をつけろ」  周は冷ややかに言った。 「お前、猿人(えんじん)のオスと懇意にしているだろう。お前と同じくらいの背丈で、顎に髭を生やしたやつだ」  潜は言葉を失った。周は片頬を歪めてほくそ笑んだ。 「私が知らないとでも思ったのか? 我らはとっくに把握済みだ」 「そ、その人には手を出さないでくれ……」 「もちろん。お前がおとなしく私に従うのならな。逢うのだって禁じたりはしない。好きなだけ逢え。所詮、ひと夏限りの間柄だ。どうせ猿人とは(つがい)のような深く(とうと)い絆を結ぶことはできないのだ。猿人の気は移ろいやすいからな。今のうちに楽しんでおくことだ。ただし、お前が私に歯向かうことがあれば……わかるな?」  わざと、潜を友一郎と好きに会わせるということは、友一郎を海の上か浜辺にいさせるということ。それは、周の気分しだいでいつでも友一郎に手をかけることが出来る位置に、潜がみずから友一郎をおびき出し引き留めるのと同じだ。 「肌が乾いてきた。(おか)に長居しすぎたな。さあ、海に戻ろう」  周が手を差しのべる。潜は少しの間迷ったが、周の黒い手のひらに、おそるおそる手をのせた。

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