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「ッ、よ、用事!」
前振りもなしに聞かれたく無いことを聞かれて、結斗は言葉に詰まった。
「ふぅん。それって走って行かないといけない感じだったの? 俺の演奏途中に」
純は背中に目でもあるんだろうか。
「腹痛かったんだよ!」
恥ずかしくて自然と声が大きくなっていた。純のピアノを聴いて勃起しましたとか墓まで持っていく秘密だ。
「週三で、あのこってりラーメンやめた方がいいんじゃない、結斗、油っぽいもの食べたらすぐ腹壊すし」
「よくご存知で!」
「多分、なんでも知ってるんじゃないかな。結斗のことなら」
「な、なんでも?」
「なんでも」
さらりと笑顔で口にした自信。純の口が綺麗な弧を描く。
「こ、怖いこというなよ、俺の何知ってんだよ」
「結斗も俺のことなんでも知ってるじゃん」
「それは」
今日の昼までは、なんでも知ってると思っていた。でも、今は知らないと思っている。
「――なんでもは知らないよ」
普通にしようと思っていたのに、おでん鍋の灰汁をすくいながら、結斗の声は次第に萎んでいった。
「大丈夫? まだお腹痛いの?」
頭の上に、ぽんと純の手が乗った。癖がかった茶色の髪を指で弄ばれる。その手の重さの分気が重くなる。
「なぁ、純いつからピアノやってんの」
「え、頭でも打った? 四歳から」
結斗の顔を覗き込んでいる純は、目を瞬かせた。
結斗は純がピアノを始めた日も、通っていたピアノ教室をやめた日も知っている。
知らなかったのは、純が、いつ、どうして、ピアノの動画配信を始めたのか、だ。
「そうじゃなくて。ずっと、人前でピアノ弾いてなかったのに、今日、弾いてたから」
「人前って、結斗の前ではずっと弾いてるよ?」
「俺じゃない人!」
「あー。確かに、それは最近」
人の気も知らないで返事は酷くあっさりしたものだった。
「だから、純さ、プロになるんだろ?」
真剣な目で結斗は純の目を見た。
けれど次の瞬間、純は弾けるように笑いだした。目に涙まで浮かべているけれど、決して変なことを言ったつもりはない。
「え、俺が、プロ? ないない。あのな、結斗は知らないと思うけど、プロの演奏家っていうのは子供の頃から毎日練習続けて、コンクールとかにも出ないといけないよ?」
「それは、知ってる、けど、他にも方法なら」
今の時代、聴いてもらう人がいてお金が貰えたらそれはもうプロだ。どんな形でも。
「あと、そもそも俺、音高も音大行ってないじゃん。英文学科の俺がなんでピアニスト?」
昔とは違う。厳しい教室に通って言われた通りに弾いて、点数をつけて、上に行くだけがプロじゃない。
「……俺の友達、動画でお前のこと知ってたし、俺は知らなかったけど」
「うん」
「純は、その界隈では有名人なんだろ? 純の演奏聴きたいって人がいるなら、それってもうプロのピアニストじゃん」
だから、とまとまらない気持ちを目で訴える。澄んだ純の瞳を見た。
「ゆーい」
先の言葉を制するように名前を呼ばれた。抑揚がないけれど、すごく甘く響く声。
「な、何だよ」
純がピアニストになる。これで、もう安心だと思った。
「どうしたの? 何か嫌な事でもあった? 俺のピアノでなんか言われたとか」
「嫌なことじゃなくて、何か、俺お前のピアノをたくさんの人が聴けるの嬉しいのに、こう、なんか変っていうか……なぁ、お前、俺の気持ち分からない?」
喋りながら自分の頭は大丈夫か、と我ながら心配になってくる。
五歳児だってもっとまともに自分のこと説明出来るだろう。
「結斗の気持ちねぇ」
結斗はハッと我に返った。大学生なのに純の前だと、いつも思考回路が幼稚になる。
「あ、ごめ、別に、お前のこと責めたいとかじゃなくて、今日の演奏すげー良かったし、大学のピアノあんな音出せるんだな、知らなかった。いつも変な音だったから」
「変?」
「うん、音が、純のピアノと違う」
いつまでたってもゴール出来ないショパンのエチュードとか、階段を途中で滑り落ちるトルコ行進曲とか。毎日あの建物の前を通るたび聴いていた。
上手でも下手でもピアノの楽しい音が結斗は好きだ。
けれど日常的に上手な純のピアノを聴いているからなのか、大学のピアノの音は聴くたびに背中がぞわぞわして落ち着かない気分になっていた。
「あー。あのピアノすごく古くてピッチ440Hzなんだけど、少し前までは、さらに低くて、お前わかったの?」
「なんとなく?」
「あいかわらず耳いいね、今日調律してたから、昨日よりはいい音だったと思うけど」
「……ふーん」
ただの違和感程度のものだ。今は大学のピアノの良し悪しよりも、もっと気になっていることがあった。
純が近いうちに、どこか遠くに行くんじゃないかって思ってる。
こんな恥ずかしい思考回路が筒抜けになっているのか、純はニヤリと笑った。
「ねぇ、結斗」
「な、なんだよ」
「とりあえず、俺は昔から何も変わってないし、別にプロになるつもりもない」
「なんでだよ!」
どこへでも好きなところにいって、プロとして羽ばたけばいいと思った。
「なんでって、俺、お前と遊びたいからピアノ弾いているしなぁ」
「遊ぶって、俺とやるのは、ただのカラオケだろ」
「それが、楽しいの。そうだ今度、一緒に京都駅行く? ストリートピアノ一週間だけ置くらしいよ」
そんな情報をどこから手に入れるのか、衆人環視のなかピアノを弾きたがるような男じゃなかったのに。なぜ? いつそんな動画配信みたいな趣味を持った? 疑問ばかりが増えていく。
結斗は気になって仕方がない。けど、どういう聞き方をしたところで、純を責めるようで言葉にならなかった。
遊ぶのが楽しいだけなら、今までと同じで良くない?
「俺と行ってどうすんの?」
「隣で歌ってくれたら、もっと楽しいかな」
「俺のは人に聴かせるような歌じゃない、界隈から出禁になっても知らねーぞ」
「そんなことないのに、昔から結斗は、自己評価低いよね」
「俺は、別にいいんだよ。人前で歌なんて子供のときに辞めたんだから」
「飽きずに毎週毎週楽しそうにカラオケ行ってるのに? 俺と変わらないって」
全然違うだろって、心の中で盛大にツッコミを入れておいた。
結斗はやっぱり、急に純のことが分からなくなった。
おでんが出来たあと、純がいる地下室に行く気になれなくて、結斗はリビングのソファーでテレビをつけ横になった。
眠かったというよりは、ふて寝。
気づいたら、テレビの音が頭の中から消えて、遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。
いま純の家にあるピアノより、記憶の中の音は、もっとキラキラしていた。
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