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小学校四年生になったころ。お互いの家に遊びに行く頻度は週一くらいになっていた。相変わらず仲は良かった。でも、低学年のころを思うと、前は、もっと一緒に遊べていたのになって思っていた。
その日は、久しぶりに一緒に遊ぶ約束をしていた。結斗は自分の家にランドセルを置いてから、純の家に続くなだらかな坂道を急いで駆け上がった。手提げカバンの中には、歌の宿題を入れていた。
純の家に着いてチャイムを鳴らすと玄関で由美子さんが出迎えてくれた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん。いらっしゃい。あの子、いま宿題で地下に篭ってるのよ」
柔らかで優しい声。でも、いつも美術室の絵画みたいに微笑んでいる由美子さんが、その日は何故か困った顔をしていた。
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
結斗の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニのケーキくらいしか馴染みがなかった。大抵「ケーキ食べたい欲」みたいなものは純の家へ行けば満たされている。
由美子さんにケーキと言われた瞬間、結斗は玄関で感じた違和感が頭から消えていた。
階段を一段飛ばしで降り地下に着く。純のピアノ部屋だ。部屋の前についてドアの隙間から中を覗くと純はピアノの前に座ってじっと楽譜を眺めていた。
(宿題ってピアノか)
鉛筆で何かをメモしながら、確認するように弾いていく。
片手ずつ。ゆっくりとフレーズごとに。
階段を途中まで降りて、また最初から。
結斗も同じような練習を歌でよくやっていた。気持ちよく最初から最後まで一気に歌わせてもらえるのは、練習日に数回しかない。基礎基本の繰り返しばかり。
純が弾くピアノの音は、いつも楽しい、隣にいるだけでわくわくする音だった。
けれど今日の音は、どこか悲しかった。初めて見る真剣な純の眼差し。少し怖いと感じた。結斗は部屋の中に足を踏み入れたのに中々話しかけられなかった。
(遊び、誘わない方が良かったかな)
けれど結斗の不安をよそに純は結斗を見るなりキラキラとした笑顔になる。カードの裏表みたい。裏返してすぐに笑顔になる。
「結斗いらっしゃい」
「宿題、邪魔だったら帰るよ?」
「邪魔じゃないよ。遊ぼう遊ぼう、何する?」
「いーよ。俺も宿題するから、歌の。だから純もピアノの宿題終わってから遊ぼう」
「分かった」
笑ってくれた純にほっとした。
結斗は黒の革張りのソファーに寝転がり鉛筆を手に取る。純の真似をして楽譜とにらめっこする。けれど、純がピアノに向き合っていたときみたいに真剣にはなれない。
純は、と顔を上げると、さっきまで周りの空気がピリピリしていたのに、鼻歌なんて歌いながらピアノを弾いていた。
楽しい、キラキラした音に変わる。結斗が大好きなピアノの音だった。
あの怖い空気は勘違いだったのだろうか。
結斗が楽譜を前にして、うんうん唸っていると、純がピアノから顔を上げて結斗を見た。
「ねー終わったけど。結斗の宿題は?」
「まーだ」
「歌、次なに歌うの? 練習するなら弾いてあげよっか」
宿題が終わったらしい純は、前に結斗が教えたアニソンを陽気に弾き出した。さっきまでと同じピアノなのに全然違う響きになる。
「メンデルスゾーン」
「え?」
急に純のピアノを弾く手が止まる。BGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたい。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって有名なメロディ。
ピアノ以外の楽器があるわけじゃないのに、純が弾くと他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
純は、結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると隣に座って結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は、結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いている歯抜けの状態だ。絶賛解読中。
「純は読めるの?」
「うん」
音がなければ楽譜をみたところで五線譜の下の歌詞しか読めない。それもカタカナで書いているから暗号文書だ。
次の練習までに楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけない。一人で出来る気がしなかった。
この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週、半端に終わらせて、周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
そして宿題が出来なかった結斗を周りの生徒たちは白い目で見てくる。
こんな暗号みたいな楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。難しい勉強は嫌いだ。歌は好きなのに勉強すればするほど嫌いなりそう。
「なー、純、移動ド分かる?」
「結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは、長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「純、日本語しゃべって」
「日本語だけどなぁ。じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
「ふーん」
純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。
合唱団のみんな最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから、仕方なくしている。
もっと、いっぱい歌いたい。音楽を勉強すればするほど、楽しいが遠くなっている気がした。
「俺は楽しく歌えたらいいや、勉強とかしたくない」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよ、それ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
拗ねて口を尖らせる。合唱団では、こんなふうに本音は言えない。純だから弱音を吐ける。
楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われて、ムカムカする。でも歌が好きだから諦めたくなくて習い事を続けている。
「うん。ちゃんと頑張ってるよ」
「純」
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