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 * * * 「結斗」  純の呼ぶ声で目が覚めた。さっき家にスキップして帰ったはずなのに、なんでまだ純の家にいるんだろう。 「う、んん。さっき由美子さんのケーキ食べた」 「寝ぼけてるな」  自分の手の大きさを見て、やっと今の状況を把握する。もう小学生じゃない立派な大学生だった。  さっきまでの夢が心地よくて、ずっと眠っていたかったなんて思った。 「ゆーい、結斗。寝るなら亜希さんに電話してベッド行きな。風邪引くから」 「ね、いま、何時」 「七時前」  リビングのソファーで、ぐっすりと眠っていた。ほんの三十分くらいの間なのに長い夢をみていた気がした。 「夕飯は? もうおでん食った?」 「いや今から」  今だって幸せなのに、昔のことを思い出すと幸せな今が急に不安になる。  今までが十全だったから余計に少しの綻びが怖くなる。純が外でピアノを弾いていた。それだけだ。良かったじゃないか。 「おーい、まだ寝てる?」  ソファーの横に立っている純を見上げる。さっきまで子供の姿を見ていたせいか、伸びた身長に違和感を覚えた。可愛らしい顔をしていたのに、顔のラインはいつの間にか、大人びていて可愛い男の子が、かっこいいし。――綺麗な人になっていた。  中学までは、結斗の方が少しだけ高かったのに高校で抜かれて差をつけられた。 「なぁ純、ピアノ好き?」 「好きだよ」  すぐに返ってきた言葉。少しの迷いもなかった。その瞳は嘘じゃないって分かる。 「うん」  そうやって、何も変わっていないことに安心している。結斗は勢いをつけてソファーから上体を起こすと台所へ歩いていった。  眠る前まで大鍋に入っていたおでんは純の家用に小鍋に入っていた。結斗の分は持って帰るように蓋つきのプラ容器に詰められている。  何もかもが完璧だった。 (べつに俺、純の世話とかしなくても良い)  もっと一緒にいて欲しいって、結斗がいないとダメだって思われたい。心の底から。  そんな結斗の寝起きのまとまりのない思考をエスパーみたいに純は気づく。ほんと長く一緒に居過ぎて何でも気付かれてしまう。  少しの心の変化に。  純は台所にいる結斗についてきて、目を眇めて顔を覗いてくる。 「な、なに」  つい声が詰まってしまった。 「結斗、昔から変なところで繊細だよね。感覚が独創的」 「それ褒めてないよな」 「あと図太そうに見えて、なんか良くわからないタイミングで急に不安定になる」 「不安定って、人を病気みたいに。元気だっつーの」 「でも本当だよ。急に内側に入り込む。のめり込むっていうのかな」 「よく分からないけど」 「繊細で感受性が強い人は表現力がある。結斗の音楽は昔からそう、面白いよ」 「音楽ねぇ」  自分の音楽なんて最近はカラオケしかしていない。純は、いつの話をしているんだろう。 「――まぁそういうところがいいのかな」 「音楽って、それカラオケの話?」 「子供のころの結斗の話。歌、勉強してただろ」 「ちょっと」  やっぱりエスパーだと思った。子供のころの夢をみていたと気付いている。 「音楽って完璧すぎると逆に面白くないよ」 「ふーん」 「人を惹きつける音楽ってそういうものだ。今の結斗の音楽も俺は好きだよ」  純がいう結斗の音楽が、どんなものか分からない。  歌をやめてから音楽らしい音楽は、大学の同好会仲間で行くカラオケくらいだった。あとは強いていうなら、純が弾くピアノで一緒に歌って遊ぶ程度。  別に純のピアノみたいな、ちゃんとした音楽じゃない。 「で、帰るの? 泊まっていけばいいのに」 「ババアにおでん持って帰るって朝に約束したから。多分そろそろ帰ってくるだろ」 「そう、じゃあ気をつけて。亜希さんによろしく」  純の亜希さんという自分の母親の呼び方は何回聞いてもぞわぞわする。  ママ、お母さん、おばちゃん、おかん、おふくろ。  全部、同じで違う生き物だ。 「俺の母親はオバちゃんでいいって、亜希さんとか呼ばなくても」  どう考えても、自分の母は「亜希さん」って顔じゃない。 「結斗だって俺の母さんのこと、由美子さんって呼ぶだろ?」 「雰囲気だよ! お前のとこの母さんは、オバちゃんじゃねーじゃん。ケーキ焼けるし、バイオリン弾けるし」 「なに、ケーキとバイオリンが基準?」  あははと純は声に出して笑う。 「あー昔食べた由美子さんのチーズケーキがめちゃうまだったなぁ。さっき夢で見たから食べたくなった」  自分の母親はケーキは絶対手作りしない、ホットケーキでさえ食べたければ結斗は自分で焼く。 「言えば喜んで焼いてくれるんじゃない?」 「今度日本に帰った時に言ってみる」 「うん。あと俺らの母さんは同級生だから年齢なら、どっちも同じ。亜希さんがオバちゃんなら、うちもオバちゃんだよ」 「それでもうちのはババアなの。――じゃあな帰る、台所サンキュな」 「はいはい。玄関まで送るよ」 「別にいいのに。鍵持ってるし」 「いいから」  すでに台所で自分がしようと思っていた片付けが残っていなかったので、おでんの容器を袋に詰めて玄関に向かった。  玄関近くにあるクロークから自分のコートを取り出して羽織り靴をはく。この一連の流れが純の家だなと感じる。  今も昔も自分の家と純の家の違いは多過ぎる。  結斗の家ならコートはリビングのソファーに投げっぱなし。靴も玄関に散乱している。母親に片付けろと怒られるまでがデフォルト。  家を比べたら違いが多過ぎる。でも純が結斗の家に来た時に「コート掛けはどこですか?」なんて聞くおぼっちゃんかというと、そんな事は全然ない。  だいたい適当に置いているし、純が結斗の家に泊まれば雑魚寝もする。  そういうところが長い付き合いが出来る理由の気がした。 「なぁ、純。ピアノ、続けろよ。絶対」  玄関でドアノブに手をかけたとき、振り返らずに結斗は背中でそう言った。 「続けるもなにも、いつも弾いてるよ」  精一杯の気持ちで頑張って言ったのに全然伝わっていなくて、地団駄を踏む。  純の才能を埋もれさせたくない。それは本心。  それなのに口に出すと寂しくなる。  自分だけの純でいて欲しい。 「だーかーらー。そうじゃなくて! もう、いい!」 「赤ちゃんかよ急にヒスるし。どした?」  髪を後ろからぐちゃぐちゃとかき混ぜられる。 「うるせー!」 「あはは。寝ぼけて坂で転けるなよ、ちゃんと前向いて歩けよ」  そう楽しそうに笑いながら結斗の後ろについて純も外に出た。玄関までと言ったのに結局、門の前まで送ってくれた。

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