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公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中、全部の力が抜けて座りこんだ。
結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
幸せな歌なのに全然違う音になった。
ずっと耳の奥にガンガンと不快な音が残っている。
待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。
ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。
本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、五年生になった年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。
多分限界だったんだと思う。
音楽に真摯に向き合い続けること。
純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。
「結斗、お待たせ、帰ろー」
結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
それでも、由美子さんの車に乗るまでは、いつも通り純とくだらない話をして無理して笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」
「……うん。俺、純の聴けなかった。出演順真ん中だった」
聴きたかった。純の楽しい音が。
「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」
「うん」
純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。
運転席では由美子さんも「結くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。
歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。
歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。
一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。
あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。
由美子さんが、純が。
他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
せっかく練習したのにって、その瞬間、後悔した。
何のために、誰のために頑張っていたのか。純のためだった。全部。
とにかく泣きたかった。
疲れと心細さがピークまできていた。結斗は、ぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。
うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。
「結斗、どうしたの」
「……つか……れた」
そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。
純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。
運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離したりしなかった。
好きに泣かせてくれた。
自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。
ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど、純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「どうしたの、大丈夫? 結くん」
「……母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
「……大丈夫だよ。結」
結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す優しい声が温かかった。
冷たかった体の温度が上がる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は段々と落ち着きを取り戻していた。
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