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 純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。  あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。  そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。 「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」  純に嫌いかどうか聞かれて、好きだとすぐに答えられなかった。 「――分かんない」 「今日さ、会場のピアノすごい良かったよ。明るくて、楽しい音だった」  結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いて家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。  結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。 「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」 「トルコ行進曲?」 「くるみ割り人形」 「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」 「純のがいい、純の音が聴きたい」  駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。 「いいよ」  純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。  あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。  キラキラした音。楽しい音。  耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。  演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。  本当に結斗は、単純だと思う。  単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。  音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。  だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。  けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。  結斗の音楽に母親は終始無関心だった。  だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけ、ほっとしていた気がする。  多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。  クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や、親のサポートも必要になる。  あとから純に聞いたけど、由美子さんは、自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。   反対しても結斗が続けると言えば親も嫌々ながら協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。想像だけど。  でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗になかった。  結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。  ――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?  楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。  結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。  結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。  結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。  結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。  けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。

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