2 / 15
II
・・・
夜の帳が下りる頃、人気がない街に冷たい空気が満ち、久遠とも思える時を静かに刻んでいる。しかし暗闇の中にある一角、街の最西にひっそりと構える店には煌々と明かりが灯り、賑やかな人々の声が聞こえていた。
寂寞から一歩足を踏み入れれば、広くない店の中にテーブルと人間が所狭しと詰め込まれ、噎せるような匂い、剥き出しの欲望と悦楽に満ちた喧騒が宵の客を出迎える。
新たな客が一人、店の門を開く。恰幅のいい金髪の若い男は、靴底の音を小気味良く響かせながら一直線にカウンターへ向かい、豪快に椅子に腰を下ろすとテーブルに小袋を叩きつけた。手のひらに潰れ、ジャラッと金の擦れ合う音が鳴る。
「オヤジィ、酒だ！ ありったけのビール出せ！」
声をかけられた酒場の店主は、厚い贅肉に覆われた上半身をカウンターに覗かせた。男の顔を見るとおお、と驚いたようにしゃがれた声を上げる。
「いつもの横柄な兵士どもが入ってきたかと思えば、久しぶりじゃないか、ヨハン。貴族様の御抱えになったんじゃねえのかい？ それとも、もうクビになったか」
豪快に笑う店主に、ヨハンは呆れたように溜息をつく。ヨハン自身はとても笑う気分ではないからだ。
「バカ言え、休みだ休み。たまには息抜きしねぇと参っちまう。それに、あの人は休暇はキチンと取らせてくれるんだ」
「へぇ。しかもこれだけの給金までお前に出してくれるとは、良いところに拾ってもらったなぁ」
「まァ、よっぽどオレの容姿がお気に入りらしいからな。いやぁオレって罪な男よ」
「むしろその小綺麗な顔だけが取り柄だからな、テメェは」
「ハハン、言ってろニクラス。……おっ、ちょっと来ねぇ間に上玉がいるじゃねえか。おおいそこの赤髪の姉ちゃん！ こっちに来てオレと飲まねぇか？」
視界の端に映り込んだ鮮やかな赤髪に目を奪われ、ヨハンは彼女を大声で呼びつけた。店の従業員らしく、ヨハンに気がつくと妖艶な笑みを浮かべる。ジョッキを手に歩み寄った彼女の腰に手を回し、豊満な胸元に鼻頭を擦り寄せる。深く息を吸うと花弁に似た甘い香りが鼻腔を満たした。クスクスと鳥の囀りのような笑い声が降ってくる。
「男前だけど、見ない顔ねぇ。この街の人かしら」
「少し前までここらを拠点にしていた。オレのことはニクラスがよく知ってる」
ヨハンに指で示され、店主――ニクラスは呆れ果てた様子で腕を組んだ。
「ただの盗賊擬きが偉そうに居直るんじゃねぇ。……マクダレーネこいつはな、シュレンツの貧民街で富豪相手に盗みを働いて暮らしてたんだ。金もねぇ癖に酒や飯をせびりに来やがってよ」
「悪かったって。だからさっき余分に払ってやったんだろ？ それにお前がオレに寄越すのはほとんど残飯だったじゃねえか」
「タダ飯食えるだけマシだと思え！」
「ふふ、それで今は何をしているの？」
「それがよ、いつもみてぇに貧民街で乞食してたとき、出会っちまったんだ。……あの人に」
そのときの事は鮮明に憶えている。
雪が降っていた。その日ヨハンは運悪く「仕事」をしくじり、傭兵に仕置きを受け、傷だらけの体で裏路地に座り込んでいた。血に濡れた肌に当たる雪は冷たく、容赦なく人々を芯まで凍えさせる。明日どころか、今日を食い繋ぐ食料さえも、宿を取る金もない。だが傷のせいでこれ以上動くこともできず、身を苛む痛みと飢え、そして孤独に耐え忍ぶ他なかった。
そんなとき側を通りかかったのが、ヘルムリッヒ領を治めている辺境伯家の末男、アルベルトだった。
『大丈夫か。酷い傷だ、誰にやられた？』
従者を連れて散歩をしていたらしい。彼は目敏くヨハンの怪我を見付けると、自らの手が汚れることも厭わず患部に触れた。
アルベルトのことは知らなかったが、身なりや振る舞いから相当な身分の者だと窺い知れた。ヨハンは咄嗟に彼が差し伸べた手を振り払った。
『おいやめろ、汚ぇだろ』
『手当てをしなければ悪化するぞ』
『いらねぇよ。貴族様は知らねえだろうがな、こんなケガくらいほっといても治るんだ』
『……』
貧しい出自から貴族などというものを嫌っていたヨハンは、早々に去ってもらいたい一心でアルベルトの提案を突っぱねた。権力者に失礼な態度を取ることにより課せられるかもしれない罰に関しては、その日に限って半ば自暴自棄の気持ちもあった。
だが、アルベルトは急に黙り込み、ヨハンの顔をまじまじと見つめ始めた。言葉もなくただただ視線を浴びせられ、訳がわからず気味の悪さを感じる。
この貴族は一体何がしたいのか。ただ暇潰しをしたいだけか。視線に耐えかね、再び体を丸めようとしたヨハンの顔を、突如男が掴んだ。
アルベルトは瞳を輝かせ、驚くヨハンにとんでもないことを言い出した。
『お前、私の下部 になれ』
『は？』
『この髪……この瞳……顔、体つき……汚れてはいるが、よくよく見れば一級品ではないか。ここに来たのは視察が目的だったのだが、私は丁度お前のような者を探して……いや、お前以外に考えられん。待遇も給料も、無論衣食住すべて保証する。どうだ、悪くないだろう？』
きっと貴族の戯言に違いない。そう確信し、ヨハンは端からアルベルトの申し出を断ろうとした。わざわざ治安の悪い貧民街にまで足を運ぶ理由も、粗悪な条件で働かせられる体のいい奴隷が欲しいからなのだ。
ヨハンはアルベルトの手を払い、侮蔑を込めた目を彼に対し向けた。
『悪いが、貴族様にこき使われる趣味はないんでな。他を当たってくれや』
『！ 望みは何だ？ 要求があるのなら聞いてやるが』
『何もねぇよ。たまに階級の低い貴族なんかが安い給金で貧民を騙し込むのを見るが、胸糞悪ィったらねえ。オレたちは貴族の奴隷じゃねぇんだ』
ヨハンはそのまま立ち上がり、別の場所へ移動しようとした。傷は痛むが、アルベルトに絡まれ続けるより痛みを我慢するほうが幾分もましだと思った。
『俺がお前を奴隷にしたがっていると思いたいのなら、勝手に思うがよい』
足を止め視線だけを背後へやる。ヨハンの言葉をどう受け取ったのか、貴族である彼はなおも厳然とした立ち姿を貫いていた。
『どんな土地にどんな身分で生まれるか、自分で選ぶことなどできん。決められるのは、どんな生き方をするか、だ。人が己の意志で拓いた未来に、女神の采配といえども干渉できまい』
『何が言いてえ？』
『確かに俺は貴族で、お前は平民だ。俺はお前を手に入れたい。お前の価値以上の対価を払うと約束する。今日ありつく食事すらないんだろう』
『……まぁな』
アルベルトの言い分が正しいことはヨハンも分かっていた。こんな生活を続ければ、いつ餓死や凍死してもおかしくはない。腕っぷしには自信があるものの、今回のように失敗してはどうしようもない。貧民窟で生きている者には、そんな過酷な運命が待っている。
それを変えるにはどうしたらいいか。やはり自分の力でどうにかするしかないのだ。
『今日明日の命をこのまま投げ出すか、俺の奴隷になるか、選択権はお前にある。権力者の犬になることを嫌い、断るというなら、それでもいい。無理には追わない。だが、そんな小さな誇りよりも、生き延びることを選ぶというなら――』
アルベルトがこちらへ手を伸ばす。差し伸べられたそれが救いの手か、はたまた忌まわしき魔手か。彼の目は確かだ。確かに、ヨハンの本質を見抜いていた。
いけ好かない貴族だろうと、平民の誇りを踏み躙ろうとも、それで生きることができるなら、何であろうと利用してやる。否、むしろ彼がヨハンに価値を見出しているこの好機を逃す手はない。
ヨハンはじっと目の前の男を見つめた。この男がどういうつもりでいるかは知らない。だが、少なくとも自分を騙し、陥れようとしているわけではないようだ。
ならば選択肢は唯一つ。正面を向いたヨハンは地面に片膝をつき、差し出されたアルベルトの手を取り、その甲に唇を触れさせた。
『いいぜ。オレ……いや私は今から、あなたに仕える奴隷となりましょう』
『賢い男だ、ますます気に入ったぞ。俺の名はアルベルト＝ジーゲル＝ヘルムリッヒ。アルベルト様と呼べ』
その御名を聞きヨハンは内心、度肝を抜かれた。男が名乗ったヘルムリッヒといえば、ヨハンが暮らすシュレンツに程近い領を治める、かの辺境伯の名ではないか。そこには三姉弟がおり、長女のカサンドラは自国の王子の元へ嫁ぎ、長男であり次子のグンターが家督を継いでいると聞く。ならば、残る末の令息こそが今目の前に立っているアルベルト本人ということだ。
高い身分だろうとは予想していたが、まさかここまでの人間だったとは。ある意味で信頼を置くには十二分な相手だ。やはり、自分の目に狂いはなかった。彼は約束を違える男ではない。
『では、アルベルト様と……私はヨハンと申します』
アルベルトは自らの懐から鮮やかな刺繍の入った手巾を取り出すと、それをおもむろにヨハンの腕の傷に巻きつけながら笑った。
『ヨハン、よい名だ。これから宜しく頼むぞ』
話し終えたヨハンは一息つき、ビールを一気に流し込む。大して面白くもない話だが、興味津々に聞いていたマクダレーネがうっとりとした表情を浮かべる。
「それで、今はアルベルト様にお仕えしてるってこと。貧民に手を差し伸べるなんて、彼は出来た人格者なのね」
「どうだかな。確かに金はたんまり貰えるし、奴隷つったって主な仕事は簡単な給仕とか主人の身の回りの世話だけで、面倒なことは他の使用人がやってくれる、泥水すすってた頃に比べりゃこの上なく楽な仕事だけどよ」
たとえ気まぐれだろうと自分を見出し好待遇で雇ってくれたアルベルトには、感謝してもしきれない。要領が良かったのか、ヨハンは従者としての仕事をすぐに覚えることができた。先代の辺境伯と夫人は既に別の土地へ隠居しており、現在の邸にはグンターとアルベルトしかいない為、気取る必要もない。約束どおり暖かい寝床と食事も与えられた。
盗みで生計を立てていた頃からは想像もできないほど恵まれている。最初は利用しようとしただけだが、「給金の分はしっかりと働かなければ」という責任感が芽生える程度には、アルベルトはいい主人だ。
「はあ……アレさえなけりゃあな」
「なんだ、こんだけよくしてもらっといて不満があんのか？」
ヨハンは肩を落とし、怪訝な顔をするニクラスへ手招きをする。何事かとニクラス、そして何故かマクダレーネも顔を近付ける。ヨハンは声を潜め――とはいっても周りは騒がしくそんな必要もなかったのだが、こっそりと告げた。
「あの人……アルベルト殿は男好きの色狂いだ」
「なに？ あの高潔なアルベルト卿がか。一体何の確証があってそんなことを」
「確証はある。なんたってオレが毎晩、夜伽の相手をしてるんだからな」
二人は目を丸くし、顔を見合わせる。そして同時に勢いよく噴き出した。
「またまたァ。そんなわけないじゃないのよ」
「いくらテメェが気に入られてるからって、言っていい嘘と悪い嘘があるぜヨハン」
「そういう反応を待ってたよ。いいか？ オレは過去ありとあらゆる悪事を働いてきたが、人殺しと嘘吐きだけは絶対にやらねぇと決めてんだ」
指折り語るヨハンだったが、彼らに信じる気はないらしく、白けた表情でヨハンを眺める。
「アルベルト様とグンター閣下は二人揃って誇り高い騎士として名のある方よ。特にアルベルト様は建国以来きっての猛将といわれていて、その容姿からも国中の女の憧れなんだから」
「夢は夢、憧れは所詮憧れってワケだ。ま、お前らが信じねえってんなら好きにしろ。ただオレはいい加減愛想が尽きてんのさ。待遇はいいが、連日相手させられて、まるで性奴隷だ」
「ははあ、気に入ったってのはそういう……しかしお前みてぇなデカブツを抱こうなんて勇者がいるとはなあ」
「おいおい冗談キツイぜ、突っ込んでんのはオ、レ、だ！」
いきり立つヨハンがカウンターを力強く叩いたその瞬間、店の端から店員を呼ぶ声が聞こえてくる。マクダレーネが席を立ち、残された男たちの間に沈黙が流れる。
ヨハンは何とはなしに店内を見渡し、大きな溜息を吐きながら後頭部を掻いた。
「ま、そんなわけで、オレはどうにかあの人に一泡吹かせる方法を探してんのさ」
生きる場所を与えてくれたアルベルトに対し、感謝の念はある。しかしそれでは余りある程、彼との密事の日々はヨハンを身体的にも精神的にも疲労させていた。
主人と使用人、はたまた奴隷という関係である限り、命じられれば断ることはできない。だがまさか、最初に契約した時点では性処理のようなことをさせられるとは想像すらしておらず、そもそもヨハンは本来異性愛者である。命令といえど、愛も情もない男の肉体を抱き続ける苦痛は相当のものだった。
その上アルベルトは、頻繁に処理を要求する割に、行為が終わればたちまち涼しい顔でヨハンを遠ざけるのだ。それが何より気に入らなかった。まるで本当に性欲処理の為だけにヨハンを雇っているかのような、冷めた態度が。
思えば最初からアルベルトはやたらとヨハンの容姿に拘っていた。彼からしてみれば、「安く使える使用人が欲しかった」のではなく、「好みの性奴隷が欲しかった」だけなのだろう。
「何企んでんだ？」
「それがな～……何か弱みでも握れりゃと思ってるんだが、隙が見つからねえ。どうにかして吠え面かかせてやりてぇなぁ」
「ったく、真っ当に生きだしたと思えば……お前がピンピンしてうちにツケ払いに来られたのは、アルベルト卿に拾われたからだろ？」
ニクラスの言うことはもっともだ。だが、ヨハンは舌打ちをしながらかぶりを振った。
「恩はあるが、だからって大人しく奴隷に甘んじるってのはオレの流儀に反するんでな」
「お前ってヤツは……ただでは死なねえ男だ」
以前と変わらず悪どい顔で笑う彼に、昔馴染みである酒場の店主はいっそ感嘆を漏らした。
ともだちにシェアしよう！
