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III

 それからしばらく歓談していたヨハンだったが、日が昇る前に屋敷へ戻らなければならなかった為、早々に切り上げて酒場を出た。  外はまだ暗く、火照った体に冷たい風が心地いい。店の前の階段を下りきったところで背後に気配を感じ、振り向く。 「もう行ってしまうの? もっと話を聞きたかったわ」 「オレの話を? それとも憧れの騎士様の話を?」 「もちろん、あなた自身のことよ、ヨハン」  マクダレーネはヨハンの目の前まで下りてくると、ヨハンの胸元に手のひらをあてがい、すうっと指をなぞらせた。そして上目に見上げる。 「毎晩アルベルト様のお相手をしているってことは、女には興味がないのかしら」 「……まさか」 「本当に?」 「試してみるか? 君の憧れの男をどんなふうに抱いてるか。ただあんまり君が魅力的で、冷静じゃいられなくなるかもしれないが」  彼女の腰を引き、壁に追い詰めた後、少しの間視線を合わせる。どちらからともなく、キスを交わした。唇を離し、啄み、深く合わせ――しばらく楽しんだ後、マクダレーネを腕の中に閉じ込める。  男とはまるで違う。柔らかく、細く、沈み込むような女の肉体。肌を触れ合わせ、安堵する。自分は「正常」だと。 「……マクダレーネ、君は聖女のようだ。こうしていると……癒やされる」 「そうかしら。あなたにとって、女は誰でも同じじゃないの?」 「少なくとも今まで出会ったどんな女より、美しく官能的な女だと感じてるよ」 「フフ、安い台詞」  笑みを零した彼女の唇が、ヨハンの口端に押し付けられる。ヨハンは彼女と熱いキスを交わすと、そのまま酒場の裏手に引き込み、我を忘れ女の肉体を貪った。 「……そういえば、ヨハンはシュレンツにいたって言ってたわよね」 「まぁな。それが?」 「最近、領内がごたついてるって話みたいじゃない? 内紛でも起こそうとしてるとかしてないとか……シュレンツは近かったと思うから」  マクダレーネが言うのは、恐らくグンターやアルベルトが話していたのと同じ件だろう。シュレンツはヘルムリッヒ領の中心部からは大きく外れ、境界も曖昧であるが故、グンター達の話を聞いても他人事としか思えなかったのだが、どうやらそうではないらしい。 「へえ、大変だな」 「あなたが居たとき、予兆みたいなものはなかったの?」 「いや…………待てよ。そういや、オレがトチって怪我した日、街をうろつく衛兵が多かった気がするな。いつもなら絶対に失敗しねえはずが、そのせいで捕まっちまった」  思い返してみれば、当時から不穏な動きは既にあったのかもしれない。だが訊かれれば「そうだったかもしれない」程度の記憶しかなく、確信には至らない。気の所為でなければはた迷惑な話だ。何の因果か、アルベルトに出会ったのもその日だったのだが。 「ったく、反乱とか内紛とか……勘弁してほしいぜ。戦が起こって今の生活がなくなれば、オレら貧民は今度こそ生きていけなくなる」  乱れた髪をくくりながらそうぼやくヨハンを、マクダレーネは不思議そうな顔で見つめた。視線に気づいたヨハンが首をもたげると、彼女は苦笑いを浮かべた。 「まるで他人事ね。あなただって貧しい生まれで、貴族を憎んでいるんでしょう? 尊い犠牲を出してでも武器を取り、権力者に立ち向かおうとしている彼らの気持ちはわからないの?」 「……嫌ってはいるが、憎んじゃいねぇ。オレが生まれたのは貴族の法も権力も届かない、無法地帯だったからな。あいつらは良くも悪くも自分たちのことしか考えない、だから貧しい人間が存在してる事実すら見ようとしない。そんな奴らに助けてくれと縋るより、今日をどう生きるか考えたほうがよっぽど有意義だ」 「でも、声を上げれば何か変わるかもしれない」 「上げたいヤツは上げればいい。何を悪として、どう生きるかは自由だ。ただオレは彼らに干渉しないし、興味もない。それだけだ。……貴族を憎む奴らにとっちゃ、自ら進んで貴族の奴隷になったようなオレは嫌悪の対象かもしれねぇが」  そう口にしながらふと、アルベルトの言った言葉が脳裏を過った。彼に従うと決めた日、聞かされた言葉。 『どんな土地にどんな身分で生まれるか、自分で選ぶことなどできん。決められるのは、どんな生き方をするか、だ。人が己の意志で拓いた未来に、女神の采配といえども干渉できまい』  ヨハンはアルベルトの考えに同意したからこそ、彼の従僕になる道を選んだ。己の出自を恨み腐るより、どう生きていくかを考え、賢い選択をした者がこの世界を生き残れる。方法がどうであろうと、何かを信じて進む決意さえできれば、人はどうにかなるものだ。  貴族にへつらい恩恵を受けているヨハンと、苦しみながらも貴族に刃を向けようとしている彼ら、一体どちらが正しいのか、自分たちでは知る由もない。だから己の行いこそ正しい筈だと信じて、生きていくしかないのだ。 「また来てくれる?」  去り際、彼女はどこか不安げにヨハンへ問いかけた。  先の話もあり、心配をしているのかもしれないと、ヨハンは口角を上げて見せた。 「ああ、また来る」 「巻き込まれたりしないでね」 「本当に内紛になれば、辺境伯やアルベルト様が出征することになるかもしれないが……だとしてもただの使用人のオレには関係のない話さ」 「そうね……じゃあまた、気をつけて」  名残惜しさを感じつつ、口づけを最後に交わし、ヨハンはマクダレーネと別れた。今夜は気持ちよく眠れそうだと考えながら。 ・・・ 「臭うぞ」  いつものごとく、アルベルトが自室で食後酒を嗜んでいる最中のことだった。  唐突な主人の言葉に、真意を汲み取りかねヨハンは首を捻った。 「におう、とは?」 「お前から酒の臭いがすると言っている」 「! ……申し訳ございません。調理の際に使った酒の匂いが移ってしまったのかもしれません」  咄嗟にもっともらしい言い訳をしたものの、内心穏やかではなかった。昨晩ニクラスの元ではあまり飲まなかったつもりだが、アルベルトにはすべてお見通しであるように思えた。そんな筈はないと思いつつ、動揺を表に出すまいと平静を装う。  アルベルトは、一見何とも思っていないような真顔でヨハンを見据える。ヨハンは笑顔を崩さず、じっと耐えた。 「酒だけではない。女の匂いも紛れている」  ただの勘にしては……鋭い。心臓がばくばくと音を立てているのがわかる。彼には本当に何もかもお見通しなのかもしれない。だが、ヨハンは貰った休暇を楽しみに使っただけで疚しいことはしていない。  ……筈なのだが、アルベルトの纏う空気がいやに張り詰めていてまるで悪事が見つかった気持ちになる。 「女性の匂いとは……一体何のことやら……」  アルベルトは席を立つと、引きつった笑みを浮かべるヨハンの元へゆっくり歩み寄る。彼の胸ぐらを掴み、勢いよく引き寄せた。目前に、凍えるように冷ややかな緑の瞳が迫る。 「この俺を騙せると思っているのか?」 「いえ……」 「お前が休みの間何をしているか、俺には関係のないことだ。酒でも何でも好きに飲むがいい。だが女は駄目だ。それだけは許さない」  彼の空いた手がグラスを掴む。嫌な予感がした瞬間、ヨハンの顔めがけてワインが飛び散る。咄嗟に目を閉じたが、顔一面が濡れてしまった。  ビールとは違った、甘い香りが部屋中に充満する。ぱたぱたと顎の下から雫が落ちていく感触。アルベルトはヨハンの襟元を引き寄せ、伸ばした舌でワインを掬い取った。 「俺のものだと言ったのに、理解できていなかったらしい。ヨハン、お前を誑かしたのはどこの何という女だ?」 「っそれは……、お答えできません」 「……次、俺でない者と寝れば、ここを捩り切って食らってやる」  貧民街に生まれ、生き抜く為あらゆる悪事に手を染めてきた過去のお陰で、殴られることや飢えといったものには慣れている。それでも流石に悪寒に襲われ、背筋を冷や汗が伝う。  急所ともいえる股を鷲掴みされては身動きを取ることもできなかった。とんでもないことをしでかしたという悔恨の念がヨハンの頭を巡るが、すべてを見透かされている以上下手な言い訳も通用しないと悟る。 「俺に仕える限り、女にうつつを抜かすことは許されない。わかったな?」 「……はい。申し訳ございません」  素直に認めたことが功を奏したのか、ようやく股間の圧迫をほどかれ安堵する。取り敢えずは助かったのだろうか。だがこれからまた同じ事があれば、アルベルトは必ず有言実行するだろう。いくら罰とはいえ、去勢されては困る。  そのまま解放されるかと思ったが、彼はそう甘くなかった。ヨハンの首筋に伝う赤い液体を舐めとりながら、一度はきつく握り締めたそこへ、手の甲を添わせる。指先をくるくると遊ばせ、膨らみを爪で引っ掻く。小さな刺激が走った。 「……! アルベルト、様」  好奇心より畏怖が勝ち、視線を正面から動かせない。下のほうで衣擦れの音がしたと思うと、ヨハンの脚にアルベルトの脚がもたれかかるように密着する。アルベルトは自らの指に唾液を絡め、その指で自分の孔を解し始めた。  ヨハンの喉元に、僅かに荒くなった息が当たる。やがてヨハンのモノも掴み出され、直接扱かれ芯を持っていく。アルベルトの後ろを拡げる動きと扱く手つきは、連動して激しさを増していった。ヨハンはだんだんと重くなる主人の体を支えながら、己の身を苛む快感を忌々しく思った。  ――また、だ。また彼の良いようにされている。性欲処理に付き合わされる羽目になる。途方もなく惨めで情けない。 「勃ちが悪いのは、酒のせいか? それとも、女を抱いたからか……」 「…………そんな、ことは……」 「……は、今日は……後ろからがいい、お前の悪童をしっかり躾けて、やらねばな」  ヨハンの手を引きながら、アルベルトはベッドの縁に手をつき尻を高く上げた。しっかりと拡げられた桃色の空洞が、ひくつきながら埋められるのを待っている。  唾を飲み下し、硬く反り返った自身に手を添え、ヨハンは徐々に上体を倒していった。 「…………っはぁぁ……ッ」  言われてみれば、いつもより硬度が足りない気がする。だが多少の誤差は、アルベルトのこの自慰行為に支障はないかと思われた。  それに、直前まで酒を飲んでいたのだから、酔っているのはアルベルトも同じ筈だった。いつもより中が熱い気がするが、彼はいつもと変わらず、さして善い顔もせず、淡々とヨハンの欲望を受け止めるのだろう。 「……ッ」 「ん……く、う……」  腰を前後させると、当然のことながらアルベルトの体も揺らめく。手袋越しの肌の感触を味わいながら、ヨハンは目を閉じた。  細い体、柔らかい体、長い髪、甘い香り、女の肉体。たった数分前まで覚えていたあの夢のような感覚が、いとも簡単に塗り潰されていく。子猫のようなか細い声はもう思い出せない。暗い路地で艶かしく輝いていた肢体は、明るい光の下で見るこの体とはすべてが異なり過ぎている。  体だけが、刹那的な快楽の虜に成り果てる。心と体が乖離している。取り残された思考は、一体どこへ向かえばいいのか、わからない。 「っ……あ!」  びく、と大きく背中がしなる。主人が無事に達したのを確認し、ヨハンはそのまま中から自身を抜き去った。  身支度をするヨハンをおかしく思ったのか、仰向けにベッドに倒れ込んだままアルベルトが引き留める。 「お前がまだ達していないだろう。最後までしろ」 「……申し訳ございませんが、今日は調子が芳しくないようで」 「……フン。これに懲りたら二度と女を抱こうと考えるなよ」  深く頭を下げるヨハンに、アルベルトは白けた様子で起き上がり、浴室へ消えていった。  見渡すと、床には赤い染みが残り、髪も濡れ、酷い有り様だった。自分も湯浴みがしたい気分だったが、それよりまず部屋を片付けなければならない。主が戻る頃にはまた元通りでいなければ。 「……チッ、あの我儘貴族……何が躾だ。いつか絶対泣かしてやる……」  布巾を手に、込み上げる苛立ちを床の染みにぶつける。  自分が選んだ道だとしても、奴隷の扱いをされ続けるのは不本意だ。どうにかしてあの男の鼻を明かしてやりたい。その方法の当ては今のところまったくないのだが、簡単に諦めるつもりもない。  部屋の掃除をしながら、ヨハンは打倒アルベルトを改めて心に誓った。

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