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IV

・・・  アルベルト=ジーゲル=ヘルムリッヒという男は一見すると完全無欠だ。  同じ人間である限り完璧などないと思っていても、彼を見ているとそう考えを改めざるを得ない。  女性の誰もが振り向く端麗な容姿に、ヘルムリッヒ家の次男という身分、戦場に立つ騎士としての実力さえ一介の兵士では彼の足元にも及ばない。更に、冷徹な印象のグンターと比べ穏やかで、平民にも驕らない気立ての良さまで兼ね備わっているとなれば、アルベルトが貴族としても一人物としても絶対的な信頼を領民から得ているのも頷ける。まさに貴公子に相応しい男だ。  だからこそ最初は、まさか彼に同性愛の嗜好があるとは信じ難かった。  アルベルトの屋敷にやってきて少し経った日の夜、湯浴みを済ませた彼の身繕いを手伝っていると、突然唇を奪われた。彼は狼狽するヨハンを自分の寝台に押し倒すと、巧みな手付きでヨハンの男性器を愛撫し、そしてそのまま上に乗り上げた。同性を抱いた経験などなく、当然抵抗したのだが、心とは裏腹に先走る熱に浮かされ、最終的には行為を受け入れてしまった。  終えた後、何のつもりかとヨハンに問われたアルベルトは、事も無げに言い放った。 『奴隷が主人の性処理を務めるのは当然のことだ』  同じ人間である限り、何か一つは弱点がある筈だ。  ヨハンはそう信じ、日々注意深く主人を観察しているが、今のところ付け入るような隙が見当たらない。たとえば苦手なものがあったり、嫌いな人間がいたり、この際大小は問わない。一つでも弱みが見つかれば、それを利用しアルベルトと立場を逆転しうるかもしれない。  相手が女性ならまだ耐えられるものを、よりによって男に性処理に使われ続け、不満がないわけがない。その上、他の女性との逢瀬も許されない。自由の為、ヨハンは眈々と下剋上の機会を窺っているのだが……。 「ねえんだよな、何も…………」  深々とした溜息が厩舎に響く。直後、餌を頬張っていた馬の一頭が短く鳴いた。アルベルトが名付け、特に可愛がっている仔馬だ。もしや自分に同情してくれているのかもしれない、などと都合のいい解釈をしたヨハンは、彼のたてがみを撫でた。 「お前はいいよなぁ、可愛がってもらって。いっそ俺の身代わりにならねえか? なんて……」  はははと乾いた笑いを零しながら、試しにアルベルトが馬を相手にしている場面を想像したものの……気分が悪くなりすぐに思考を打ち消した。  外に出ると、庭園の方向に人影を見つけた。ヨハンが厩舎の掃除をしていたこの時間は、庭師が手入れを行っている筈だ。休憩がてら庭園に足を運ぶと、老年の庭師デニスと侍女が何やら話しているところだった。  侍女は脇目にヨハンを見つけると、慌てたように顔を上げた。 「ヨハンさん……! こ、こんにちは……」 「ご苦労さまです。イルゼさん、ここで何をしているんですか?」 「あ……その、この花が……」  彼女が視線を落とした先に近付き、花壇を覗くと、美しく咲き誇る花々の中に一輪だけ不自然に萎れた花があった。 「一輪だけ枯れてますね」 「ここを通りかかったら……見つけて、心配だったので、原因をデニスさんに聞いていたんです」 「まあ、よくあることだけど、虫食いだよ。最近気温の高い日が増えてきただろう。早いとこ駆除しとかないと、他の茎や葉もやられてしまうんだよね」 「それは大変だ……」  庭園は広く、枯れているのが一輪だけなら大した問題ではない気がするが、どうやらそう単純ではないらしい。庭師の仕事も大変だとヨハンが他人事に考えていると、イルゼがしゃがみこみ、枯れた花の周りの花を何やら弄りだした。  原因の虫を捜しているらしい。庭の手入れは侍女の仕事ではない筈だが、彼女の表情が真剣そのもので、ヨハンは同じように体を縮め、イルゼの隣で花をひっくり返してみた。 「花が好きなんですね」  手入れの手伝いをしながら、ヨハンはイルゼにそう聞いた。彼女はしばらく間を置き、控えめに頷いた。 「はい……昔から好きなんですが、このお庭にはたくさんの種類の花が咲いているので……私、時々デニスさんのお仕事を手伝わせてもらうんです……」 「確かに……私も見たことがない植物がたくさんあります。綺麗ですよね」  グンターの侍女であるイルゼは年も若く一生懸命だが、やや気弱なところがあるらしかった。珍しく笑顔を見せる彼女にヨハンは、どんな経緯でグンターに仕えることになったのか興味が湧いた。 「イルゼさんは、いつからグンター様にお仕えを?」  唐突だったせいか、イルゼははっとしたように手を止め、少し狼狽えながら答えた。 「……初めてお屋敷に来てから、もうすぐ四年になります」 「そんなに前から」 「私の生家は、十数年前までは領地を持つ小貴族だったのですが、地位を失い……それで父が、少しでも稼ぎを得られるようにと、私をヘルムリッヒ辺境伯の元へ送り出してくれたのです」  ヨハンよりも若いが、ヨハンが来るよりずっと以前から、家の為に侍女として働いているというのでは、彼女も相当苦労したに違いない。しかも小難しいと噂のグンターが相手では、尚更だ。果たして気弱なイルゼにグンターの侍女が務まるのだろうかと若干の心配を覚えたのだが。 「グンター様は、辺境伯位というお立場にありますから、厳しいところも勿論ありますが……右も左もわからなかった私を、文句一つ仰らず受け入れてくださいました。とてもお優しい方なのです……」  意外な返答に驚いたが、彼女の横顔が微かに赤らんでいることに気がつく。その様子に、もしやイルゼがグンターに好意を寄せているのではないかという予想が過る。憶測だけで決めつけるべきではないが、もし本当にそうだとして、使用人が主人に恋愛感情を持つことは本来許されない。下手に持ち出して、彼女を不用意に傷つけたくはなかった。  グンターに恋をする気持ちはわからずとも、人を好きになる気持ちは自分にも理解できる。人間として生きている以上、誰かに心惹かれるのは不思議なことではない。  マクダレーネの姿を思い浮かべ、ヨハンは知らず溜息を吐いていた。 「大丈夫ですか、ヨハンさん……? あの……お仕事の途中だったのでは。ここはもう大丈夫なので、どうぞ行ってください」 「い、いえ、大丈夫です。アルベルト様が執務中で丁度時間が空いてましたから」 「そうですか……グンター様も、本日は出かけておられますし……お二方とも、お忙しそうですよね……」  魅力的な女性だった。もう会うこともないのかと思うと、残念で仕方がない。それもこれも、独善主義の主のお陰だ。彼の言いつけを破れば、自分のみならず彼女にまで危害が及ぶ可能性もある。それは不本意だ。よくよく考えてみれば、性奴隷が主人以外に発情し、主人相手に役目を果たせないなどということがあれば由々しき事態だ。アルベルトが怒るのも無理はないのかもしれない。  寧ろ外出の自由があるだけ、他の奴隷よりましだろう。その点でも恵まれているのだ。  だが……やはり腹が立つものは立つ。 「……ん? そういえば……」  ふとヨハンにある疑問が浮かんだ。アルベルトに婚約者はいるのだろうか。  年齢を見れば、アルベルトもグンターも十分に婚姻を結ぶべき年に達している。にも関わらず、共に未婚だ。王族の元に嫁いだ長女のカサンドラを除き、家督を継いだグンターはいずれ婚約し後継者を作らなければならないが、アルベルトには結婚の義務はないのだろうか。騎士としても男としても優秀な彼なら、縁談も引く手あまたである筈だ。  屋敷に勤めて長いイルゼなら何か知っているだろう。 「グンター様やアルベルト様には、婚約者などはおられないのですか?」 「えっ? 婚約者……ですか……?」  イルゼにしてみれば脈絡のない質問だ。その上内容が内容だからか、気まずそうに視線を落とし、手で口を隠しながら言い難い様子でヨハンへ耳打ちする。 「……婚約は、グンター様もアルベルト様も、しておられます……グンター様は、グーベルク侯爵のご令嬢ディアナ様と……アルベルト様は、マルクラム伯爵のご令嬢リーゼロッテ様と……ですがアルベルト様は一年前、婚約破棄をなされています」 「婚約破棄? 何故?」 「すみません、私には……理由は公表なされませんでしたから……」  一年前といえば、そう昔の話ではない。だが一体どんな理由で婚約を破棄したのだろうか。  ……と、考えたヨハンだったが、実は理由は明らかであることに気がついた。  アルベルトは同性愛者だ。女性との結婚を拒んだとしてもおかしくない。グンターがいる限り弟のアルベルトに継承権はないから、どうしても跡継ぎを作る必要は無いとなれば、そんな我儘も通ってしまうものかもしれない。すべてヨハンの推測の域を出ないが。  しかし、仮にも貴族だというのに、奴隷を飼うだけに収まらず婚約破棄までしてしまうとは、身勝手にも程がある。グンターが家督を継いで正解だ。 「……使用人の間には……他に懸想されている方がいらっしゃるのでは、と噂する者もおりました」 「!? 本当ですか」  独り言のようにイルゼが呟いた言葉を、ヨハンは聞き逃さなかった。彼女の肩を掴み問い詰めると、イルゼははっと口を押さえ、青い顔をする。 「す、すみません、私……過ぎたことを、どうか聞かなかったことに……!」 「アルベルト様には、婚約破棄するほど恋い焦がれる人物がおられると?」 「いえ、そういうわけでは……か、勝手な憶測ですから……っ」  盲点だった。そして勘でしかないが、いい線を行っている気がした。  アルベルトが婚約破棄をした理由は、他に想いを寄せる人物がいるから。その相手はたとえアルベルトでも容易に手の届かない立場の者、あるいは同性――つまり男であり、その人物の「代わり」に、ヨハンを自分の元に置き、埋まることのない欲求を毎晩満たしている……という推理だ。  辻褄は合う。何より他には考えられず、すっかり納得がいった。 「そういうことだったのか……」 「あの……ヨハンさん……?」 「ありがとうございます、イルゼさん。あなたは私の恩人です」 「え、え……?」  ようやく見つけたアルベルトの弱点。最早これ以外には方法がない。  彼が想いを寄せる人物さえはっきりすれば、婚約破棄の理由の裏付けが可能だ。その事実を盾に取れば、高慢な主人を黙らせることができる……筈だ。  人間である限り、誰かを愛する気持ちを止められはしない。表向きは貴公子を気取っていても、彼とて譲れないものがきっとある。それを利用するしかない。 「イルゼ、何をしている」  突如かけられた声に驚き、慌てて立ち上がると二人の前にはグンターの姿があった。イルゼの真似をしてヨハンも頭を下げる。グンターは厳しい目でヨハンを一瞥した後、イルゼの手を取り、眉間の皺を深めた。 「手に傷がついたらどうする。土弄りなど庭師に任せていたまえ」 「……も、申し訳ございません。お迎えもせずに……」 「構わない。今日は公務ではないからな」  それだけを言い残し、グンターは屋敷の方向に歩き出す。イルゼはヨハンに会釈をすると彼の後を追いかけていった。 「うん……?」  一人残されたヨハンは彼らの姿を見送りながら、後頭部を掻く。  気のせいでなければ、グンターの視線が一段と冷たかった。初めて顔を合わせた際出身を訊かれ、あまり好意的な印象を与えていないのは感じていたが、先程は更に明確な、悪意のようなものが視線に含まれていた気がするのだ。  何か気分を害することをしただろうか、と考えを巡らせる。そういえば、イルゼに対するグンターの態度が普段より優しげだった。  もしやグンターもイルゼに好意を抱いており、ヨハンと二人でいたことに嫉妬を抱いたのではないだろうか。  我ながら安直な結論付けだと思うが、あながち間違いでもない気がする。自然と笑みが零れた。 「辺境伯様も満更じゃねえってワケだ。素直じゃねぇな」  グンターには婚約者がいるという話だが、ヨハンとしてはイルゼの恋を後押ししたい気持ちが大きい。気もよく、ヨハンに有益な情報をもたらした彼女のことを、応援したいと思うのは当然だ。  だが、それよりもやるべきことが自分にはある。アルベルトの腹の内を探らなければならない。彼の想い人さえどうにかして知ることができれば、晴れてこの奴隷生活ともおさらばだ。ようやく希望が見えてきたのだ。  アルベルトの秘密を探り、それを利用し立場を逆転させる。  改めて気合を入れ直し、ヨハンは意気揚々と仕事へ戻った。

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