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V
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……とはいっても、それはとても容易ではなかった。
アルベルトはあまり他人に腹の内を見せる人物ではなく、古くから働く使用人たちに婚約破棄について訊いてみても、イルゼから聞いた噂以上の情報は得られなかった。その上出身や身分が確かではない新参のヨハンが、主人のことを色々と嗅ぎ回ることにいい顔をしない人間も多く、実際に探るといってもできることはほとんどありはしなかった。
ならばアルベルト自身が何か手がかりになるものを持っていないかと、彼が不在の間、掃除をするふりをしながら自室や書斎を漁ってもみた。個人的なことが書いてある日記でもあればと、識字の出来るイルゼの手も借りつつ探してみたが、そういった類のものも何も残っていなかった。
奴隷を飼っていること以外、何も後ろめたいことはない。ならば、アルベルトが婚約破棄した理由は一体何だろう。単に相手の女性を気に入らなかっただけなのだろうか。せっかく見えた希望が潰えてしまうと思うと、もどかしかった。
こうなればいっそのこと、身内か、本人に直接訊くしか手はない。
グンターはヨハンを快く思っておらず、口も固そうで、訊いたところで素直に教えるとは思えないが、だからといって本人に訊いたとして、結果は見えている。
「……では、私はこれで。何かあればお呼びくださいませ」
寝台に潜る主人の姿を見届け、ヨハンはいつものように部屋の明かりを消し、退室しようと扉に手をかけた。
「ヨハン」
足を止め振り向く。手提げの照明を寝台へ向けるが、寝具が動いた気配はない。確かに呼ばれた筈だ。踵を返し、アルベルトの元へ近付く。
たった先程まで嫌というほど肌を合わせておいて、まさかまだ不満でもあるのかと憂鬱な予感がしたが、ヨハンが戻ってきてもアルベルトは起きようとせず布団に埋まったままだった。
「アルベルト様? どうかなさいましたか」
呼んでおいて黙っている彼の顔を照らす。あまりに沈黙が続くのは、自分の聞き間違いだったからだろうか。と思った瞬間、アルベルトの目が開きヨハンのほうへ向く。
暗がりのせいか、それとも違う理由があってか、彼の表情には陰りが見えた。
「何か話をしろ。お前のことなら何でもよい」
「私の話……ですか? アルベルト様を楽しませられるような話など……」
「俺が聞きたいと言っている。お前の生まれ育ったのはどんな場所だった? 今までどうやって生きてきた。お前なりの言葉で構わん」
アルベルトは体勢を変えると、ヨハンの手を引きベッドの縁に座らせた。何故突然そんな話を聞きたがるのか不思議に思ったが、彼の表情も言葉も妙に真剣で、断る言い訳が見当たらない。
そもそも己の話だろうが、隠し立てすることもない。ヨハンは明かりを側に置き、小さく咳払いをしつつ腰を据えた。
「……アルベルト様のご存知のとおり、私はシュレンツで生まれました。裕福な暮らしではありませんでしたが、母も父も優しく、小さなあばら家で家族三人幸せに暮らしていました。……ある日、家に強盗が押し入ってくるまでは」
幸せが奪われた日。あの凄惨な光景は今でも脳裏に鮮明に焼きついている。使いから帰って来た幼いヨハンが家で見た、血溜まりに倒れ込む母と父の姿。荒らされた家の中。呆然と立ち尽くすヨハンは、背後に忍び寄る気配に気がつかなかった。頭を殴られ意識を失い、次に目を覚ましたときには、既に荷馬車の中だった。そこには同じ年の子供が何人も詰め込まれていた。
「私だけは殺されず、両親を襲った強盗一味の手によって人買いに売られました。ですが御者の目を掻い潜り馬車の鍵を開け、そこから何とか逃げ出すことができたのです。このとき初めて、盗賊の真似を働きました。その後はシュレンツに戻り……その日暮らしで現在に至っております」
そういえば、初めて他人に過去を話した。隠し立てすることでもないとは思っていたが、あまり気分のいい話でもなく、そもそもヨハンの過去を知りたいという人間も、ヨハン自身が話したいと思うこともこれまで無かったのである。
ヨハンがどんなふうに生きてきたのか――「聞きたい」と口にしたのはアルベルトだけだ。
「そうか。……辛い話をさせたな」
どんな反応が返ってくるか、興味がなかった訳ではない。だが少し拍子抜けした。予想より真面目な顔をしてヨハンを気遣うアルベルトが可笑しくて、思わず笑みを漏らしながらかぶりを振った。
「いいえ。私のような境遇の子供は、珍しくありません。特に自分が不幸だと思ったことはありませんし、私が乗せられていた馬車には他にも沢山の子供がいて、私は彼らを見殺しにして一人だけ逃げたのです。今頃、もっと酷い目に遭っている人間がいると思うと、私が生き延びられたことは寧ろ幸運というべきです」
慎ましくも穏やかな幸せを突然奪われ、仇を憎んだ。あまりに理不尽な仕打ちに、己の運命をまったく嘆かなかった訳ではない。だが馬車の中から一人逃げ出し、孤独の身となり、誓った。
生かされた命を無駄にせず、何としても生き延びようと。どんなに過去にしがみつこうが恨もうが、そこから生まれるものは何もなく、生きる上で何の糧にもならない。この世界で母と父の存在を証明できるのは、最早自分だけなのだ。縋る正義すら見えないこの世界で信じられるのは自分だけだ。
ならば、どんなに生き汚いと罵られようとも生きてやる――と。
「だから……独りになった不幸を嘆くのではなく、一人でも助かった幸運を噛み締めて、生きていくと決めました」
静かに揺らめく蝋燭の炎に視線を留めたまま、そう口にした言葉はまるで自分に言い聞かせているようにも思えた。
ふと手に温もりを感じ、顔を向けるとアルベルトの手のひらがヨハンの手に乗せられていた。もう吹っ切れたつもりでいたが、いざ記憶をよみがえらせるとその事ばかりが頭を巡る。小さな頃の両親の思い出が過る度、胸に痛みが走る。血に濡れた彼らの苦悶の表情がまざまざと浮かぶ。
アルベルトと目を合わせることで、霞がかった意識が急激に引き戻された。
「お前は強かったのだな」
目を丸くし、大きく瞬きをしたヨハンに言い聞かせるように、アルベルトが繰り返し「お前は強い」と言う。
「痛ましい過去にとらわれず、己の生と向き合った。何にも頼らず生きる術を身につけ、己の力のみで生きてきた。それは並の心では成し得ぬことだ。ヨハン、お前は恵まれている」
「……恵まれているというなら、アルベルト様のほうが……」
「物の豊かさを言っているのではない」
触れた指先が冷たい。いつになくヨハンを褒め称える彼の様子に違和感を感じた。普段のアルベルトとは違う。視線が外れ、アルベルトが憂いのある表情を見せる。ヨハンは大した意味もなくアルベルトの手を取り、冷たい指先を包み込んだ。
綺麗な手だ。男の手だが、細く滑らかで傷一つない。傷だらけで節くれ立った自分の手とはまるで違う。
「俺は、強くなりたい」
「……え?」
「お前や……シュレンツの民のような、暴力や困窮に苦しむ者を減らすにはどうしたら良いかをずっと考えている。幾ら我が領内といえど、今のままでは端まで統治が及ぶことなどない。ヘルムリッヒ家が父上の代より辺境伯という位を賜っている以上、王だけではなく、民衆の信頼も得ねば未来はない。知っているだろう? 小村の小競り合いすら治める力もない貴族を、誰が敬うというのか」
「…………」
グンターやマクダレーネが話していたことを思い出す。
近々、内乱が起こるかもしれない。そしてそれはシュレンツの貧民を中心に決起されている恐れがある。ヨハンにとっては故郷ともいえる場所だが、治安も人間の質も悪く、ねぐらを転々としていたお陰で土地にこれといった愛着もない。暴動が起ころうが、興味はない。
アルベルトはそんな彼らの現状に少なからず気を揉み、改善策を探っていたという。
貴族――権力者というものは、上辺だけを見て底辺で苦しんでいる者には目もくれない程、腐っているのではなかったか。
「正式に家督を継いだのは兄上だが、継承権のない俺とて何か力になれることがある筈だ。彼らの力になれるのなら、出来ることであれば手を尽くしたい。貴族だからこそ歩み寄り、平民と手を取り、共に生きる道を模索していくべきだと思うのだ。お前のような目に遭う者を……一人でも多く救いたい」
己の立場に驕ることなく――否、立場を自覚してこそ、良い世を作ることができる。貧しい者たちが求めている理想が、アルベルトにはある。もし彼の語る世が実現すれば、それは誰もが苦しむこともなく、ヨハンのような子供もいない幸せな治世だろう。貧民たちが無能な貴族を憎み、諍いを起こすこともなくなるに違いない。
……アルベルトの言葉こそ嘘でなければ。
「アルベルト様ともあろう方が、我々のような日陰者の為に心を砕いてくださっているというだけで私は嬉しく思います」
ヨハンはアルベルトの目を真っ直ぐに見つめた。彼の手を握り、精一杯の笑みで返す。
「誰だろうと、望んで争うわけではありません。ただ、皆が必死で生きているだけです。貴族のあなたが力のない者に寄り添おうとしてくださるのなら、皆喜びます」
「ヨハン……そう思ってくれるか」
アルベルトは小さく溜息をつくと、ヨハンの肩へ頭を寄せ、凭れかかった。髪に隠れヨハンからは表情を確かめることができなかったが、自分の言葉がアルベルトに安堵をもたらしたのだと思った。
特にそうしようとした訳ではなく、自然とヨハンの手はアルベルトの頭に乗せられた。主人に対しての使用人の行いとしては失礼かとも一瞬躊躇ったが、自らの胸に押し付けるように頭を抱えても、アルベルトに抵抗の意思は見られなかった。
彼とはほとんど毎日肌を合わせている。この程度の接触では何ということもない筈だ。欲情というものも起こらない。なのに、アルベルトの鼓動の音を聞きながら、性的な意味合いもなく寄り添っていると、味わったことのない不思議な心地がする。……否、この感覚は遠い昔、母親に抱き締められたときのそれに似ている気がする。記憶が遥か遠く過ぎて、答え合わせもままならない。
「ヨハン、お前と出会えたのは、女神が俺にもたらした運命だ。もっとお前のことを知りたい。これからも俺の傍にいろ」
ヨハンの頬に触れたアルベルトは目を細め、ゆっくりと顔を寄せる。唇同士が重なろうとしたとき、ヨハンは彼から顔を背け立ち上がった。そのまま手提げ照明を手に取り深々と頭を下げると、にこりと笑顔を浮かべる。
「私も……女神というものは信じていませんが、アルベルト様にお会いできたことに感謝しております。これからも従僕として、及ばずながらお力添えさせていただきます。では、失礼します。ゆっくりお休みくださいませ」
故意にアルベルトの返事を待たず、足早に部屋を後にした。その後、暗い廊下を進む。
変な気分を味わったお陰で、腹の中がどうにも落ち着かない。それは普段気丈な主人の苦悩を垣間見た所為だろう。
だが、ヨハンはアルベルトの言葉を完全に信用していなかった。
綺麗事を唱えるだけなら、人間なら誰でも出来る。そしてそれは権力者の常套句だ。わざわざヨハンを呼び止め気弱な面を見せたのも、そうしてアルベルトに絆されたヨハンの行動を制限する為の企てに他ならない。彼が弱っているからでは決してない。
残念ながら、そんなものには絶対に騙されない。何故ならヨハンが信じるのは自分自身だけと決めているからだ。同情を求められたところで、心までアルベルトに傾くことは今後も一生ない。
未だ温もりが残る手を力強く握り、ヨハンは舌打ちを漏らした。
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