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VI
・・・
翌日のアルベルトはすこぶる調子が良かった。
昼食後に行われる日課の鍛錬では見事な立ち回りを見せ、直属の部下の羨望を一身に浴びる。アルベルトが意気揚々と刃を振る様子を、いつものようにヨハンは傍らに控え見守っていた。
貴族の中にも功績を認められ騎士号を与えられる者は多く、アルベルトやグンターもその一例である。領主としての公務をこなしながら、有事には部下を率い自ら前線へ赴く。特にアルベルトは爵位を持つ兄に代わり騎士としての武勲に拘りを持っており、訓練を怠ることがなかった。
彼いわく「机に向かっているより剣を振るうほうが楽しい」のだという。体を動かしているアルベルトの顔は、小難しい話をしているときよりも活き活きしている。
「ふう……こんなものか。ご苦労、下がれ」
「ありがとうございました!」
アルベルトと槍を打ち合っていた部下の一人が退き、訓練の時間もようやく終わるかと思われた。だがヨハンのほうを向いたアルベルトは予想だにしない提案をしてきた。
「これで終いに……とも考えたが、ヨハン、来い。最後はお前が相手をしろ」
「!? 私が……ですか?」
突拍子もなく指名されたヨハンだけでなく、周りの部下達も驚き戸惑う様子を見せた。訓練とはいえ使用人と主人が打ち合いをするなど、そうそうあることではない。いくら命令でも、騎士でない自分がアルベルトと手合わせなど、悪い冗談としか思えない。
「一度お前と手合わせがしたかったのだ。腕っぷしにはそれなりの自信があるのだろう? 槍でも剣でも、好きな戦法を選ぶがよい。私はそれに合わせてやる」
楽しみを前に待ちきれないといった様子のアルベルトとは反対に、部下達のヨハンを見る目は寒々としたものだった。出自も身分もはっきりしない粗野な男が突然アルベルトの従僕になるばかりか、信頼を置かれ、腕のある主人との訓練相手の役目も負うというのだ。奇異の目で見られるのも無理はない。
「ですが私は、騎士様と違い正式な訓練を受けておりません。とてもお相手が務まるとは」
実力差は明らかだ。それに、変に目立ちたくもない。直ぐ様断ろうとしたのだが、アルベルトは刃の潰れた片手剣をヨハンに無理やり持たせ、訓練場の中心に躍り出た。
ヨハンに渡したものと同じ形状の剣を構え、アルベルトが不敵に笑う。
「気負う必要はない。だが手は抜くな。そうだな……お前が勝てば、望みを一つ聞いてやろう」
「!」
「どうだ、やる気になったか」
望み。確かにそう聞いた。
これは絶好の機会ではないだろうか。万が一でも自分が勝つことが出来れば、アルベルトの想い人を聞き出すことも可能かもしれない。逆にこのときを逃せば、下剋上の機会は恐らく永遠にやってこない。
上手くいけば、剣の腕すらアルベルトを上回ることも有り得る。
勝機はないが、賭けてみるしかない――。
「分かりました」
上着と腰布を脱ぎ捨て、身軽な状態でヨハンはアルベルトの前に立った。逆手に剣を構え、腰を深く落とす。ヨハンの構えを目にし、アルベルトの顔色が変わった。
「ほお、成程。確かにその構えは騎士のそれとはまるで異なる。殺す為ではなく、生きる為の戦術か」
まるで見定めるような視線が四方から全身に刺さる。邪道、と評されても仕方がない。何しろ剣技など習ったこともなく、身に付けたのは生き延びる為の護身術に近い。しっかりとした流儀や型がある騎士の剣技とは比べようもないほど粗末なものだ。
真正面からかかっても勝ち目は薄い。ならば、隙を作るしかない。
「では行くぞ!」
アルベルトの一声で二人が同時に床を蹴り飛び出す。先手を繰り出したのはアルベルトで、大きく振りかぶった剣先を勢いよく振り下ろす。ヨハンはぐっと上体を屈め攻撃をかい潜ると、アルベルトの背後に回り横一直線に腕を振りかぶった。
刃同士がぶつかる鈍い音が訓練場に鳴り響く。僅かな時を睨み合った二人は直ぐさま弾かれるように距離を置いた。だが退いた次の瞬間にはヨハンの足は床を蹴り出し、間合いを詰める。
ヨハンが逆手に繰り出す斬撃をいとも容易く正面から受け止めながら、アルベルトは口角を引き上げた。
「図体の割に良い動きをする」
「……喋っていると舌を噛みますよ」
笑っているのはまだ余裕があるということだ。だがそれはヨハンも同じである。激しい打ち合いを繰り広げる最中、一際重い剣圧がアルベルトを襲った。それを右手に受け流した瞬間、顔先にヨハンの回し蹴りが叩き込まれる。
「ぐ……っ」
入った。
直前に腕で防がれたが相当重い一撃を入れたつもりだ。倒れこそしなかったものの、アルベルトは大きく体勢を崩す。すかさず剣を順手に持ち替え、斜め上から剣先を振り下ろした。
しかしその手は弾かれ――直後ヨハンの頬を風圧が横切った。
「良い動きだが咄嗟の手が単調だぞ。それでは私を出し抜けまい」
鋭利な刃が掠めた錯覚を起こし頬がヒリヒリと痺れる。危険を感じ、間合いの外へ下がる。既に体勢を整えたアルベルトは突き出した剣をくるりと回し、涼しい顔でくいと顎をしゃくった。
「私の番だ」
「!」
軽いステップを踏みながら間合いを詰められ、またも鋭い突きが繰り出される。辛くも避ければ、間髪入れずに突きを絡めた四方八方からの切りつけが襲う。流れるような剣筋は、受け止めることで精一杯だ。
予想はしていた――が、予想以上に隙がない。ヨハンには剣術の心得も何もない。これまで相手取ってきたのもごろつきや下級傭兵ばかりで、当然その実力も底が知れる程度だった。
だがアルベルトは正式な戦闘訓練を受け、騎士としての実績もある。動きには無駄がなく、ヨハンの拙い剣筋を読むことも容易いだろう。
「どうした、守っているだけか?」
剣の腕では絶対に敵わない。現状、アルベルトが僅かに動揺したのはヨハンが蹴りを入れた瞬間だけだ。
正攻法ではどう足掻いても勝てない。確信を得て、ヨハンは四肢に力を込めた。やってみるしかない。
アルベルトの剣を受けつつ、僅かに上半身を後ろへ引く。彼が攻め手を緩めず更に踏み込んできたところで、一気に身を屈め足払いを仕掛けた。
「!」
アルベルトの体が前のめりに傾く。ヨハンは逆手に構えた剣をアルベルトの胴へ向け振りかぶった。
しかし手応えはなく、剣先は空を切る。アルベルトがヨハンの肩に手をつき、頭上を越え一回転していく。直ぐに振り返り、ヨハンが体勢を整えようとした瞬間――
ひた、と首筋に冷たい感触が当たる。
目の前でアルベルトが誇らしげな笑みを浮かべた。
「勝負あったな」
負けを悟り、ヨハンはその場にへたり込んだ。
剣術の心得がある手強い相手との仕合。彼の剣は堂々としていて、殺意に近い気迫すら感じた。
何もかもが初めての経験で、知らず知らずの内に気圧されていたらしい。解放されると気が抜け、後から気分が高揚してくる。
「中々だったぞ。ヨハン、今度正式に訓練を受けてみろ。腐らせておくには惜しい。今は荒削りだが、磨けばきっと私や兄上にも引けを取らぬに違いない」
アルベルトが差し出した手を掴み、立ち上がると周りから称賛の声が広がった。大半はアルベルトに対するものだが、中にはアルベルト相手に奮闘を見せたヨハンを讃える者もいた。
当のヨハンは苦々しい表情のまま、アルベルトに頭を下げる。
「アルベルト様、お見事でした」
「ふん。少し虐め過ぎたか? まあ、お前も良い体験が出来ただろう」
「はい……」
「しかしあの蹴りは中々効いた。痣が残るかもしれんな」
苦情を言いつつ、アルベルトはさして気にしていない様子だった。彼は部下へ訓練の終了を告げた後、滞りなく場を後にした。
その後彼の部下達も、熱気冷めやらぬ様相で部屋を次々出ていく。
やがて人気の無くなった訓練場で、残ったヨハンは一人奥歯を噛み締めた。
「クソッ……!」
手も足も出ない、とはこのことを言うのだ。
手合わせ中、アルベルトは終始笑みを浮かべていた。不意打ちで食らわせた一発以外はほぼ当たらず、ヨハンが必死で食らいつこうとする中、彼には余裕すら見えた。よもや勝てるとは考えていなかったが、ここまで差があるとは想像していなかった。それなり自信があっただけに。
強い。口だけではない。彼の地位は実力が伴っている。あのアルベルトという男はまさに完璧で、つけ入る隙などとても見当たらない。
アルベルトの弱みを握る絶好の機会を逃したことよりも、圧倒的な力で打ち負かされたことのほうが精神的な打撃だった。
悔しさが憤りが腹の底から湧き上がってくる。力いっぱいに拳を握り締め、歯を食いしばる。
だがそのとき何故か、不意に脳裏に昨晩の記憶が過った。
『お前は強かったのだな。痛ましい過去にとらわれず、己の生と向き合った。何にも頼らず生きる術を身につけ、己の力のみで生きてきた。それは並の心では成し得ぬことだ』
剣の腕も何もかもがヨハンを上回るアルベルトが口にした台詞。
あんなことを言われたのは、初めてだった。
「…………敵わねえってのは最初から分かりきってた。過ぎたことをいつまでも気にしてんのも、オレらしくねえよな」
そうだ。騎士のアルベルトと平民の自分が戦ったところで、負けることは分かっていた。それに、たった一発でも彼を呻かせることができた。本来それだけで大手柄なのだ。
過去のことをいつまでも悩むのは、自分らしくない。アルベルトの意見に賛同するのは癪だが、だからといっていつまでも落ち込んでいる訳にはいかない。この手が駄目だったのなら、他の手を考えるべきなのだ。
自らの頬を叩き、拳を握り気合いを入れ直す。久々に汗を流していい気分転換になった。
「うし! 気ィ取り直して、仕事頑張るか」
勝ってアルベルトの想い人を聞き出す作戦は失敗したが、別の機会を探ればいいだけのことだ。
時計を確認し、次の仕事を思い出す。次の予定は午後のお茶の時間の準備だ。体を動かした後で、それなりに小腹が空いているに違いない。遅れると文句を言われかねない。ヨハンは急いで調理室へ向かった。
「あ……ヨハンさん、お茶の準備はしておきました……」
調理室にはイルゼが既に一式を揃えて準備していた。果物で彩られた焼き菓子が載った皿を差し出され、ヨハンは思わず感嘆の声を漏らした。
「有難うございます! 助かります」
「わ、私もこれから、グンター様にお運びするところだったので……」
早速ヨハンが盆を運ぼうとすると、後ろでイルゼがあっと慌てたような声を上げる。振り向くと彼女がヨハンの胸元を恐る恐る指差した。
「あの……ヨハンさん、上着、どうなさったんですか……?」
「え? ……あっ」
いつもより身軽なことに気が付き、そういえば手合わせの前に脱いでから存在をすっかり忘れていたことを思い出した。取りに行くのは面倒だが、使用人として身なりは整えておくべきだろう。
ヨハンは一旦イルゼに言い置き、急いで訓練場に戻った。だが、床に放った筈の上着はどこにも見当たらない。脱ぎ捨てた後の行方は分からないが、探せば見つからないほど小さな物でもない。
見つけた誰かが拾ってくれたのだろうか。そんなことを考えながらうろうろしていたヨハンを呼んだのは、中年の女性の使用人だった。
「あらぁ、ヨハン君。行き違いになってしまったわね」
「行き違い?」
「ここを掃除中に、貴方がいつも着ている服を見つけたのよ。届けようと思って捜していたのだけれど、途中でアルベルト様にお会いしてねぇ。代わりに届けてくださると仰るから、彼にお渡ししたわ」
「そうでしたか。有難うございます」
確実に会う自分が渡したほうが手っ取り早いと思ったのだろう。人間として好きにはなれないが、アルベルトのこういった気配りには素直に感心する。
上着の行方も判明し、ヨハンは改めてお茶の準備を終えアルベルトの部屋に向かった。訓練場へ戻った所為で少し時間を消費してしまったから、今頃遅いと腹を立てているかもしれない。勝負に負けた意趣返しだと思えば、許される筈だ。
やがて部屋の前に辿り着き、扉を叩く。
「アルベルト様。お茶をお持ちしました」
返事がない。再度叩き耳を澄ませるが、やはり何も聞こえない。もしやヨハンを捜し、まだ部屋に戻っていないのだろうかと扉をそっと開き、僅かに顔を覗かせた。
直ぐにアルベルトの後ろ姿が見える。彼は寝台の横に立っていた。単に声が聞こえなかっただけだろうか。
「失礼致します、アル……」
声をかけようとして、ヨハンは立ち止まった。咄嗟に扉の陰に身を隠す。何故ならまずいものを見た気がしてならなかったからだ。
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