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IX

・・・  翌朝、ヨハンはアルベルトの部屋の前に立っていた。  結局逃げるべきか決めきれぬまま夜を明かしてしまい、周囲の人間に怪しまれない為、いつものように主人を起こしに来た……のはいいが、もう何十分と扉の前で立ち竦んでいる。  アルベルトとてヨハンの顔を見たくはない筈だ。やはりイルゼに頼み、役目を代わってもらおうか……そんなことを考えていたとき。  扉が急に開き、ヨハンの額を打った。ゴツンと鈍い音が廊下に響く。 「いっ!! つー……ッ」 「いつまで経っても来ないと思えば、何をしている」  患部を押さえる手を下げ声のするほうを見上げれば、身支度を済ませたアルベルトが立っていた。  彼は徐に手を伸ばすと、ヨハンの前髪をかき上げ額をじっと見つめ、赤くなった部分を指でそっと撫でる。 「美しい顔に傷など残してくれるなよ?」  それ以上の接触はなく、アルベルトは呆けた表情をするヨハンに笑みを残して廊下を歩いていく。  てっきり殴られると思い身構えていたヨハンは、何が起こったかよくわからないまま主人の後ろ姿を見送る。 「…………???」  ぶつけた痛みなど一瞬で忘れてしまった。  アルベルトは、いつもどおりだった。 「加減が良くないそうだな」 「一晩休んで、すっかり調子が戻りましたよ。ご心配をおかけしました」 「……まだ声が嗄れている。万全でなければ、無理はしないことだ」 「ええ、お気遣いありがとうございます」  普段どおりに朝食の席につき、兄と会話を交わすアルベルトの顔を、こっそりと横目に、かつ注意深く観察する。  体調不良の有無を気取られることもなく、何事もなかったかのような毅然とした振る舞い。意識をするどころか、記憶があるのも実はヨハンだけではないかと疑問に思う程だ。もしや、本当は夢だったのだろうか。すべてがヨハン自身の願望だったとでもいうのか。  夢である筈がないと思う反面、以前と変わらないアルベルトの態度を目の当たりにし段々と自信が無くなってくる。 「……ん。ヨハン、酒が無いぞ」  視線を上げた先でアルベルトが空になったグラスを揺らす。ヨハンは慌てて酒瓶を手に、テーブルへ駆け寄った。  だが、動揺が手元に表れたのか。グラスに注ごうとした瞬間手元が滑り、しまったと思ったときには既にアルベルトの胸元は濡れていた。 「も……申し訳ございません。すぐに代わりの召し物をお持ちします」  まずは拭おうと、汚れた部分をナプキンで叩く。アルベルトはその手をすげなく払うと、突如席を立ちテーブルに背を向けた。 「兄上、私は着替えてきます。どうぞ先に食事を済ませていてください。ヨハン、お前も来い」  怒らせた。声色を聞いたヨハンはそう確信した。兄のほうを振り向きもせず部屋に戻っていく主人とは、本音を言えば二人きりになりたくない。だが、アルベルトが一体何を考えているのか追求したい気持ちもある。  グンターに怪しまれない為にも、気は進まないながらアルベルトの自室へ向かう。  扉を背に、着替え始めたアルベルトの背中を見つめる。いつもどおりの態度だが、今は逆に不気味でもある。やはり気になって仕方がなかった。何事もなかったように振る舞うことなど、ヨハンには出来そうもないのだ。 「どういうつもりだ、一体?」  アルベルトは振り向くことなく、淡々と濡れた上着を脱ぎ、着替えを進める。 「何の話だ」 「忘れたとは言わせねえぞ。しらばっくれるつもりか? それともオレに情けをかけてるのか。アルベルト様は寛大だな」  腹を探る目的も兼ね、皮肉を込めてヨハンが鼻を鳴らすと、ふとアルベルトが振り向く。だが予想に反して彼は笑みを浮かべていた。 「下の者に情けをかけてやるのは、主人の役目よ。おかしな事でもないだろう」  神経を逆撫でされる感覚を覚えた。衝動のままにヨハンはアルベルトへと近付き、彼の襟元を掴んだ。額を突き合わせ、奥歯を食いしばる。  散々痛い目に遭わせてやったつもりだ。それなのにアルベルトは、平然としているどころか、未だにヨハンを見下している。どこまでも侮られているようで我慢ならなかった。 「ああそうかよ。忘れたんならもう一度同じ目に遭わせてやろうか?」  握り拳にギリギリと力がこもる。一瞬も怯まずにじっと瞳を据えるアルベルトを、ヨハンは殺気すら籠もった眼差しで睨んだ。  彼の変化に気付くことなく。 「……わかった」  呆けるヨハンの目の前で、アルベルトは徐に下衣を脱ぎ捨て、床に膝をついた。中心で首を擡げるアルベルトの屹立が惜しげもなく晒されている。彼はヨハンの腰に手を回し、膨らみへ頬を擦り寄せた。  腹を空かせた仔犬のように、哀願する視線が上を向く。 「きっと昨日よりもうまくやるから、……そうしたら、また同じことを……してくれるのだな」  それは、貴族としてでも、主人としてでもなく、限りなく浅薄で憐れで淫らな雌の姿だった。  甘く掠れた声で鳴きながら足元に縋りつく顔は、無様としか表しようがない。  ヨハンの口から乾いた笑いが漏れた。 「…………は……ははは、本気で言ってんのか。自分から跪いて、勃起させて、また犯してくれとか、これがかのアルベルト様かよ。頭おかしいだろ、笑っちまうな」  ヨハンはアルベルトの頭を乱雑に掴み、首を反らせる。それでもアルベルトはヨハンを見つめたまま、されたことに対して呼吸を荒くする。抵抗の意思などまったく見られない。  好きだから――それだけの理由で、すべてを受け入れられるものか。  狂っている。これだけの扱いを受けてなお逆らう気が無いのだとは、信じ難い。幾ら身体が正直だとしても、心の中では何を考えているかなど確かめる術もないし、もしかすれば絶対服従と見せかけ油断したところで罠に嵌めるとか、不埒な企みをしていないとも言い切れないだろう。  自分を懐柔させる為、平気な顔で嘘を吐く男なのだ。ならばこの際、許す限りの憂さ晴らしをさせてもらうのも悪くない。 「……いいぜ。そんなに言うなら、オレの奴隷にしてやる。このことは二人の秘密だからな」  恍惚とした表情でアルベルトが頷いた。返事をするように、緩く勃ち上がった彼のものからぱたりと涎が垂れていく。ヨハンは小さく喉を鳴らしながら、股間にしゃぶりつく奴隷の滑稽な姿を愉快な心持ちで見下ろした。

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