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・・・  弱者は祈る。  膝をつき、十字架を両手に握り締め、暗闇の中で頭を垂れる。  自らの無力を十二分に解っていながら、不運を憂い、尚救いを求めて形のないものに縋る。彼らは拠り所を探して生きている。背負って生まれた罪を嘆きながら、祈っている。他には何も無いから。  彼らは心のどこかで本当は気づいているのかもしれない。訪れる救済と罰、そのどちらも神などが下すわけではなく、自分らと同じ地に立つ人間から与えられるものなのだと。  神はいつだって人の苦しみに無関心だった。  だからこそ、自分の手で運命を拓いていかなければならない。誰に咎められようとも。何に阻まれようとも。祈ってばかりで何も起こさないのは、驕りだ。助けてくれるものなんていない。  信ずるものは自分自身だけ。  孤独な少年はそう、心に刻みつけた。  秘密を約束したその日から、偽りの逢瀬は毎夜訪れる。最小限の灯りだけを傍らに置き、長い夜を、寝台に籠もり、過ごす。  小さな炎に照らされた頬は、苦痛と喜悦を交互に過らせる。だが、雄弁にものを語る筈の目元を塞がれている状態では、彼がどんな感情を抱いているのかまでは推しはかりかねる。もっともヨハンにとっては知る必要のない情報でもあった。  これは魂のない人形を抱いているのと変わらない。溜まった欲を吐き出すだけなら、それで十分事足りる。 「あぐ……あ、は、あっ……んあ……!」  最初は手足を拘束した上、口も塞いでやろうかと考えた。だが一切の無抵抗を条件に、視界を奪うまでに留めることにした。  情けをかけているようで癪だったが、奴隷といえば自由を奪われるべきという安易な発想で提案したことに過ぎなかったし、手足を拘束などしなくても、アルベルトが抵抗する筈はないと承知していた。  上質な着衣を腕に絡ませたまま、下から乱暴に揺さぶられる身体が、弓なりにしなりびくびくと痙攣する。引きつったように狭まる肉の壁に絞られ、ヨハンも限界を迎えた。腰を埋めたまま息を詰め、射精を終え、熱も冷めやらぬうちに身体を起こす。  巻かれた黒い布は涙か汗かで濡れそぼり、緩やかに波打つアルベルトの黒髪が張りついていた。鈍い動きで目隠しを外したアルベルトは、ぼんやりした視線をヨハンに向けその肩を抱き寄せた。 「おい。気安く触んなよ」  冷ややかに吐き捨てヨハンが手を叩き払うも、アルベルトは気にした様子もなく、寧ろ笑みを浮かべ尚もヨハンの頬に触れる動作を止めなかった。  欲を吐き出した後の触れ合いなど、ヨハンにとって煩わしさしかなかったが、顔に触れられるのは今に始まった行為ではないので耐えることにした。 「なあ……人の顔にベタベタ触るのが、そんなに楽しいか?」  瞼を閉じ、視界からの情報を遮断したままそんな問いを投げる。アルベルトの手つきはいつも柔らかく、まるで腫れ物を扱うようだ。性感を煽るときとは別の、もっと違う類のむず痒さを感じる。およそ図体の大きい男にする触れ方とは思えない。  正直に言えば、不快でもあり、懐かしくもある。両親が生きていればこんな気持ちを今もずっと抱えていたかもしれないと思う程度には。 「楽しいな。特に、最近はお前が見せてくれないから」  じわじわと目元が赤らんでいる。そんな顔をされるのが嫌で、わざわざ目隠しをさせていると理解しているのだろうか。  彼の瞳が、深碧の宝石が、真っ直ぐに自分へ向けられるごとに、胸の奥が悲鳴を上げる。  その唇から発せられる甘言がすべて嘘偽りであると知っていても――知っているからこそなのか、虫酸が走るのだ。  素直に口にするのは憚られて、ヨハンはわざとらしく唇を尖らせた。 「あんたがジロジロ見てくるからだ。萎えるんだよ、そうなったら困るだろ」 「……ああ、確かに」  アルベルトが重たげに身体を起こす。ヨハンの手に自らの手を重ね、首を傾げながらヨハンと視線を合わせる。 「好きにしてくれて構わない。お前が抱いてくれるだけで、俺は満足だから」  この期に及んで、彼が何故笑っていられるのか理解に苦しむ。  もしも自分が同じ立場だったとしても、アルベルトと同じ行動を取る確証はない。理解ができないから気味が悪い。どうせ本心は違うだろうと疑心が晴れない。  アルベルトがヨハンを「好き」だと言うのは、嘘だ。いや、それ自体は本当だとしても、彼がヨハンに絶対服従を誓う、ふりをしているだけだ。性欲を満たすという魂胆もあるかもしれない。自分はただ憂さ晴らしをしているだけなのだ。嫌いな男を前にして。 「さっさと身体洗ってどうぞお休みください、アルベルト様」  ヨハンは掴んだシーツをアルベルトの身体に押しつけ、自分の身なりを整え始める。背後で寝台を降りる気配がした。未だ情事の残り香が漂う部屋の中で、事が済めば元の主人と従者の関係に戻る。  アルベルトがヨハンの奴隷でいるのは、二人きりの間のみだ。 「最近……アルベルト様の、お元気がないように見えませんか……?」  正午を過ぎ、共に仕事をしていたイルゼが発した言葉にヨハンは心臓を跳ねさせた。しかし予感は予感に過ぎず、もしや己の悪事が露呈したかと疑う必要はなかった。  薄暗い貯蔵庫の中、ヨハンは彼女の顔色をこっそりと窺う。 「元気が、ない?」 「私の気のせい、かもしれませんが……どことなくうわの空、というのでしょうか。夜は早々にお部屋に戻られてしまいますし……」 「あぁ……」 「ヨハンさんは、何か気づいたりしませんでしたか……?」  部屋でアルベルトとヨハンがどう過ごしているか、イルゼは知らない。アルベルトも露骨な態度を取るような真似は決してしないが、イルゼだけは目敏く変化を感じ取っているらしい。流石はグンターに長く仕える侍女だ。  正直に暴露する訳にもいかず、縋るような視線から逃げるべく足元の荷物に顔を向けたまましらを切る。 「いえ、私は何も……ですがご主人様が何か頭を悩ませているのなら、どうにかして差し上げたいですね」 「……私たちにできることなど、何もないかもしれませんけれど……グンター様やアルベルト様が笑顔でいることが、私たちにとっても喜びなのですよね」 「……笑顔」  ヨハンが呆けたようにその一言を繰り返すと、イルゼは困惑しつつ首を傾げた。彼女に気取られぬ為に、慌ててかぶりを振る。 「あ、いや、そうですね。私もそう思います」  アルベルトに笑顔でいてほしい、と思ったことは一度たりともない。ただ使用人というと、主人が公務を行う合間の雑用をこなすだけの小間使いという認識を持っていた。  辺境伯邸にはヨハンとイルゼの他にも、数多の使用人が働いている。中にはイルゼと同じく、グンターやアルベルトを心から慕う者もいるのだろう。イルゼが個人的にグンターを慕っていることを除いても、主人に対し不義を働こうとする人間は自分くらいなものかもしれない。  主人がどんなに優れた人格者であったり、高い地位の貴族であったりしても、やはり敬う気にはなれないのだ。とはいえ、彼が口にしていたとおり、今のままが満足なのかもしれないが。 「ご苦労。精が出るな」  耳慣れた声に過剰に驚いてしまう。振り返ると、貯蔵庫の前に数頭の馬が止まり、一際大きな馬からアルベルトが降りてくるところだった。  ヨハンと共に駆け寄ったイルゼが、アルベルトの後ろを見てわっと声を上げた。自分の丈と然程変わらない大きな獲物を手に、アルベルトは自慢げな笑みを浮かべる。 「今日狩った獲物の中でも一番の大物だ。どうだ、立派だろう」 「アルベルト様、流石です」 「これは今宵の晩餐の主役だ。残りはいつもどおり、まとめて塩と果実に漬けておけ」 「畏まりました」  アルベルトは娯楽と称し度々狩猟に出かけているが、武に長けていることもあり、狩猟の腕前も中々のものらしかった。ヨハンが使用人に雇われてからの期間にも、こうして獲物を大量に抱えて戻る日が多くあった。無論、これらは貴重な食糧になる。  アルベルトの手を借りつつ、ヨハンは獲物を積んだ荷を貯蔵庫へすべて運びこんだ。貯蔵庫の管理までは任されていないのだが、若く体格も恵まれたヨハンが力仕事を頼まれることも多かった。  どうやら他の使用人はヨハンが平民の出自である為か、ひとつ頼み事をするにも気安いらしい。特に不満はないし、別の仕事をしている間はアルベルトの世話から離れることができるので、積極的に屋敷の中を駆け回っている。 「そういえばヨハン、お前は鹿肉が好物ではなかったか?」  アルベルトがそんなことを質問したのは、彼が狩ってきたのが丁度鹿だったからか。確かに先日、鹿肉を酒で煮た料理を口にし美味だった記憶があるが、口に出した覚えはない。  本当にこの主人はよく見ている。 「好物というか……感動はしました。今まで食べたことのない味だったので」 「そうなのですか? ……ここに来られる以前は、どんな食事を……?」 「裕福ではありませんでしたから、恥ずかしながら、残飯を漁って食いつないだり……新鮮な肉や果実や小麦のパンなんか、ここに来て初めて口にしましたし。腹を満たせることの幸せを噛み締めています」 「大変だったのですね……」 「ふむ、俺の元にいる以上、飢えで野垂れ死にはさせない。安心するがいい」  ヨハンがアルベルトの恩恵にあずかっていることには変わりない。たとえ扱いに不満があろうと、「それ以外」の待遇にはこれといった文句も思いつかない。  寝床と食料に困らないというのは、何より助かる。アルベルトに雇われなければ一生手の届かなかった暮らしだ。 「で、では、今夜はアルベルト様が狩ってきてくださった立派な鹿を調理してくださるよう、料理長にお伝えしてきます」  一礼を残し、イルゼが厨房のほうへ向かって走っていった。一人になったヨハンは仕事を進めるべく、貯蔵庫の奥へ戻ろうとした。  しかしヨハンの背後から彼を呼ぶ声がする。 「すっかりイルゼと打ち解けたようだな」  妙に棘のある声色だ。渋々ヨハンが振り向くと、アルベルトは不満げに腕組みをしながら、近くの藁草の上に腰を下ろした。  以前、ヨハンが余所の女と関わりを持ったと知ったときと同じ顔をしている。二人きりの空間で、ヨハンは隠しもせず大きな溜息を吐く。 「ええ、まあね。元貴族だっていうけどオレの身分にこだわらねえし、ちょっとトロいとこもあるけど丁寧に仕事教えてくれますから。どっかの誰かさんと違って偉ぶることもねえし?」 「意味もなく偉ぶる訳ではない。得があるから振る舞うのだ。……気が利く娘だからな、惹かれるのも無理はないだろうが」 「は? おいおい待て待て、手なんか出さねえよ! オレにだって好みがあるんだ。誰でもいいってワケねえだろ」  あまりに身勝手な言い分に思わず声を荒らげる。アルベルトは疑り深くヨハンを見上げ、ぼそりと呟く。 「好みでなくても、俺を抱くだろう」  頭の中が怒りで沸騰する感覚を覚える。とんだ言い草だ。一体どんなつもりで言っているのか知れたことではないが、わざとヨハンの神経を逆撫でする為である他に何があるというのだろう。

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