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XIV
「どうかなさりましたか?」
「わっ!」
気配にまったく気がついていなかったのか、声をかけた瞬間青年は大げさに飛び上がった。ヨハンの顔を見た途端、大きな黒目を更に大きく開く。
「あ、貴方は……」
「ヘルムリッヒ家にお仕えしております、ヨハンと申します」
「僕はマルクラム家の従者、名はモーリッツと言います。ヨハンさん、貴方のことはかねてより聞き及んでおります」
青年はヨハンと同じほどある背を半分に折り曲げ、強張っていた顔色を僅かに緩ませた。訳がわからずに立ち竦むヨハンに、モーリッツは続けてこう告げる。
「急で驚かれましたよね、実は僕、以前アルベルトさま……いえ、アルベルト卿にお仕えしていたことがありまして」
「え?」
「お嬢様宛ての便りに書かれていました。僕が屋敷を去った後、美しい髪と瞳の、新しい従者を雇ったと。一目見てわかりました。貴方のような人は、僕がいたときは働いていなかったですから」
ヨハン以前の従者の話など、アルベルトからは一言も聞いていない。彼が雇ったのはヨハンで一人目とばかり思いこんでいたが、改めて考えてみれば、貴族の身分で従者を持たないほうが不自然だ。ヨハンの前に雇われていた人間がいたとして、何らおかしなことではない。
黙るヨハンを訝り、モーリッツは苦笑いを零した。
「僕のことはアルベルト卿から聞いていないのですね。不公平ですよね、これじゃあ」
「……あの方は、あまりご自分のことをお話しにならないので」
嘘ではないが、「ヨハン自身がアルベルトに興味がない」と言ったほうが正しい。だからこれまでに彼の過去や交友関係について、人から伝え聞くしかしてこなかった。弱みを握るための材料を探したことはあっても、彼の口から個人的な話題を直接聞く機会などほとんどなかった。
ヨハンが己の過去を話したあの夜とて、彼はただ耳を傾けるだけで。
「では、アルベルト様の……『あれのお相手』をしたこともないのですよね」
まるで一人言のようにモーリッツが口にした言葉に、ヨハンは思考を奪われた。
腹の奥深くが訳もわからないまま、ざわめく。
「貴方が素晴らしい人だというのが書面からでもとても伝わってきたので、もしやと思っていましたが、見当違いだったようです」
ヨハンは突発的にモーリッツの腕を掴んだ。小脇に抱えた酒瓶がガラガラと音を立てた。驚き、ヨハンの顔を見たモーリッツが狼狽えるような表情をする。
「あれの相手」と言った。口ぶりからしてそれは、アルベルトがヨハンに要求している行為のことをまさしく指しているのではないか。
「あれの相手って、何のことですか」
「……いいえ、何も知らないのなら僕の口から話すことはありません。どうぞ忘れてください」
「それって……」
「何を騒いでいるのですか?」
ヨハンの言葉を遮り、物音を聞きつけた別の使用人が台所から出てきた。二人の顔を見比べ、何かを思い出したように声を上げる。
「モーリッツ? ああ、そういえば今はマルクラム家で働いているという話だったかしら。こんな場所で何を?」
「はい、何かお手伝いすることはありませんか?」
「あら……でも今の貴方は一応お客人ですから、働かせる訳にはいかないわ」
「手透きになってしまって……体を動かしていたほうが気が紛れるのです」
「では、肉を捌くのを手伝ってくれますか?」
「お任せください!」
すっかり聞きそびれた。モーリッツ達に続きヨハンも台所へ戻るが、気がかりで仕事が手につかなくなってしまった。
使用人の中に馴染み、そつなく動く彼の姿は従者としての有能さが窺える。アルベルトに仕えていたときも、きっと信頼を置かれていただろう。誠実で身なりも整い、端正な顔立ちをした青年だ。モーリッツは、アルベルトの秘密を知っているのか。
今のヨハンと同じように、夜な夜な主人の性処理を引き受けていたのだろうか。
その考えばかりが頭の中を巡る。
「さて、イルゼさん、ヨハンさん、そろそろグンター様とアルベルト様をお呼びしてきてちょうだい。モーリッツはマルクラム伯爵を」
「わかりました、お呼びしてきます」
「はい。……行きましょうか、ヨハンさん」
イルゼに肩を叩かれ、慌てて頭を振る。モーリッツの姿を視界の端に入れつつ、主人の部屋に向かう廊下を歩く。途中でイルゼと別れ、アルベルトの部屋の扉を叩くが、中は無人だった。
「そういや、お嬢様と庭を見て回るって言ってたっけか……」
そのことを思い出し、屋敷を出て裏手へ回る。庭園から少し離れた場所に人影を見つけた。日が落ちかけていたせいでわかりづらくはあったが、どうやらアルベルトとリーゼロッテで間違いないようだ。
二人は向かい合い、何かを話し込んでいる。すぐに声をかけようとして、ふと思い直す。何ということはない、好奇心が顔を出した。
物陰に隠れ、気配を殺しながら様子を窺う。盗賊稼業をやっていた過去からすると身を隠すのは得意なものだ。
「…………ですから、本当は私一人で来るはずでした。どうしてもお会いすると言って聞かずに、大人数で押しかけてしまってごめんなさい」
「賑やかな食事もたまには良いさ、気にするな」
「父上を恨まないであげてください。あの人は、領地を守ることに必死なだけなのです。また数年前のような戦が起これば、一番に被害を受けるのはマルクラム領……そしてヘルムリッヒ家の寄進が途絶えれば、貧民や孤児は飢え苦しみ、たちまち我が領の暮らしは立ち行かなくなります」
「わかっている。伯爵は確実な後ろ盾を欲しているだけだろう。大層見くびられているようだが、私も兄も知己を見捨てるような真似はしない。……とはいえ、伯爵の言い分を杞憂とは一概には言えないからな……もし本当に先々で内乱が起こることになれば、ヘルムリッヒ領も余裕があるとは言い難い状況だ」
「ええ……そうですね」
「……伯爵には悪いが、早々に縁談の件も諦めてもらいたいものだな。一体いつ真実を打ち明けるつもりだ?」
「……!」
――真実。やはり、婚約破棄には別の理由があるのか。それもアルベルトの一方的なものではなく、リーゼロッテも把握している理由が。予想が当たっていたと知ると、鼓動が僅かに速くなる。
そこで会話が途切れ、しばらく沈黙が続いた。ヨハンは固唾を呑みじっと見守った。俯いたまま、ようやくリーゼロッテが口を開く。
「話そうとは……思っているのです、ずっと。でもどうしても勇気が出ず……本当のことを話せば、父上はどんなに怒り、私を軽蔑するでしょう。五年前に兄が病で死に、家の行く末は私に託されたというのに、わたしは……なんて浅はかで……愚かな……」
両手で顔を覆うリーゼロッテの肩に、アルベルトの手が触れる。嗚咽が混じった女性の弱々しい声が、綺麗に並ぶ花々の中で悲壮に響く。
「あの日のことをずっと後悔しているのです。私のせいであんなことになってしまったばかりか、ずっと貴方に重荷を背負わせて、アルベルト様の優しさに甘え、助けられている……」
「……リーゼロッテ」
「どれだけ女神様の御前で懺悔しても、この罪は消えることがない。なのに、私には糾弾される勇気も、すべてを捨てる勇気も、償う勇気もないのです。……父に、母に、失望されるのが怖い……」
アルベルトは彼女の身体をそっと抱き、涙に濡れた顔を自らの胸に押しつけた。強くない力加減でリーゼロッテを包み込み、瞼を閉じる。
「いいか、リーゼロッテ。君が責められることは何一つない。神も王も関係ない、尊ぶべきは貴女の心だ。己の心に嘘はつけない。それが人というものだから」
「アルベルト様……教えてください、私はどうしたらよいのでしょうか……?」
「……己の心に正直でいろ。それだけが自分を救ってくれる。たとえ不安になっても、孤独になっても、確かな気持ちをひとつ強く持ってさえいるなら……他の誰も貴女を責める権利などない」
彼の言葉を聞いていると、妙な感情が湧いてくる。あの声と喋り方に乗せられた言語は、これまでのヨハンの生涯の中で縁のない意味合いのものばかりで、耳慣れない。一々落ち着かなくなるのはそのせいだ。
一体どんな気持ちで、婚約を破棄した相手を腕に抱いているのだろうか。説明し難い感慨に襲われ、拳を固く握る。
「ヨハン? どうした?」
何事もなかったように振る舞うアルベルトに対し、ヨハンも同じく上面だけの笑みを浮かべて二人の元へ近寄った。アルベルトの後ろで焦って顔を拭うリーゼロッテに気がつかないふりをしながら頭を下げる。
「夕食のご用意が整いましたので、お知らせしに参りました。ああそうだ、マルクラム家のモーリッツ様にもお手伝いいただいたのですよ」
「客人の家の人間をこき使ったのか? 褒められたものではないな」
「申し訳ありません。一度はお断りしましたが、何もされないでいるより動きたいとおっしゃったので……」
「……うちの従者がごめんなさい。モーリッツはどこに?」
「マルクラム伯爵をお呼び致しているかと」
「ありがとう。アルベルト様、私は顔を洗ってから向かいますわ。どうか父上にそうお伝えくださいませ」
「ええ、私もすぐ向かいます。では後ほど」
リーゼロッテはアルベルトとヨハンに一礼すると、心なしか急ぎ足で彼らの横を通り過ぎ屋敷の中へ戻っていく。彼女の後ろ姿を見送り終え、ヨハンはアルベルトの方を向く。視線に気づいたアルベルトは苦笑いを作ってみせた。
「今見たものは他言無用だぞ。女性の涙は見て見ぬふりをするのが美徳だ」
「オレがいるのに気づいてたのか?」
「いいや。だけどお前は人の秘密を覗くのが好きらしいからな」
眉をひそめ、かぶりを振る態度はいつもと変わらない彼そのものだ。今はそれが無性に癇に障り、アルベルトの手首を掴む。触れた肌は外気の冷たさに反して異様に熱かったが、そんなことに構う暇はなかった。
はっと息を呑み、アルベルトの視線がヨハンへ向く。
「あんたらは何を隠してる? 婚約破棄の理由は他にあるんだろ」
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