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ぼくらのそれぞれ(4)
冬樹の夢をみた。
冬樹は僕の2、3歩前を歩いていた。
ときどき振り向いては僕に向かって微笑み…また前を向いて歩き出す。どんなに僕が足を早めても、どうしても追いつけない。
冬樹の行く先には、深い森や、渦巻く波が広がるけれど…冬樹がそこへ足を踏み入れると…そこに一筋の道ができる。
僕は、その道を辿っていく…
目の前に、突然大きな夢魔が現れ…冬樹に襲い掛かった。
「…冬樹っ」
冬樹は夢魔と闘い…やがて夢魔は倒れて消えた。
そしてまた、そこに道ができた。
「大丈夫だよ…」
振り向いて微笑む冬樹の顔は、傷だらけで…真っ赤な血が、ダラダラと流れていた…
「…冬樹…」
ダラダラと滴り落ちる…血の跡を、僕は歩いていた。
僕は、堪らず走って冬樹を追いかけた。
手を伸ばして…僕の手が、彼の長い髪に触れた。
その途端…
「あっ…」
冬樹の足元が、急にガラガラと崩れ落ち…冬樹もろとも、深い谷底へ落ちてしまった…
「冬樹…」
僕のすぐ前で、崖崩れは止まった…
谷底を覗き込むと…そこは青い深い海の底で…冬樹はもうずーっと下の方へ沈んでしまって、とても小さくしか見えなかった…
「冬樹ーー!」
そして、僕は目が覚めた。
寝心地の良いベッドに…眩しい朝日が差し込んでいた。
「おはよう」
結城は、もうとっくに起きていたようで、既にスーツに着替えていた。
「…おはよう…ございます」
「なんだ、起きたの?おはよう」
僕は、ボーっとしながら、訊いた。
「…仕事ですか…?」
「ああ。でも君はゆっくりで大丈夫だよ。まだしばらくここに泊まることになってるから」
僕はゆっくり起き上がった。
そして、甲斐甲斐しく身支度を整える結城の姿を目で追った。
長い髪が、真っ直ぐに伸びていた…
「…あなたは…冬樹によく似てる…」
僕は思わず呟いた。
結城はそれを聞くと、ニコッと笑った。
昨夜とは全然違う…とても優しい笑顔だった…
すっかり支度を終えた彼は、僕の側へ来た。
「昨夜はすまなかったね。強引に連れ込んで」
「…いいえ…」
と、彼は内ポケットから財布を出し…紙幣を数えて、それをベッドの脇のテーブルに置いた。
僕は驚いた。
「…ええっ?…そんなつもりじゃ…」
「わかってる…もちろん私もそんなつもりじゃなかった。ただ君は、予想以上に素敵だった。」
「…」
「これは、私の感謝の気持ち…」
「…でも」
結城は僕の髪を撫でた。
「…二度と会えないかもしれないからね…」
そう言いながら彼の目は、ホントはそんなこと全然思っていない風に…見えた。
そして優しくキスをして…サッと立ち上がった。
「ま、気が変わったら、連絡して。まだしばらくここにいるから」
「…」
「それじゃ、冬樹くんと仲良くね…」
そう言って結城は、荷物をまとめ…部屋を出て行った。
「…」
僕はゆっくりベッドから降りて…とりあえずテーブルの上の紙幣を手に取った。
「1…2…3…4…5…」
えええー?! 5万円も?!
あの人は誤魔化してたけど、これは『僕の値段』…
僕とのあの行為の値段…だよな。
あれで。5万…?
結城の、思わせぶりな台詞の数々が…僕の頭の中でグルグルとまわつた。
「…はあ…」
溜息をついて僕は…結城が置いてあった煙草を1本取り出し、火をつけた。
「ゲホッ…ゲホッ…」
煙草を咥えたまま…僕はもう一度ベッドに仰向けになった。
苦い煙草の煙が、毛細血管まで染み渡って…僕は、自分の身体がどんどん汚れていくのを感じていた。
ああ…僕は…僕の身体は、中も外もぜーんぶ真っ黒になっちゃったな…
自然と涙が溢れてきた。
冬樹…ごめんなさい。
僕は、決して追いつけない夢の中の冬樹のことを思い出していた。
枕元の灰皿で煙草を揉み消し、もう一度、枚の紙幣を手に取って、じっと見つめた。
何度もその1万円札の数を数えてしまった…
こんなになるのか…
僕はベッドから飛び降り、バスルームに向かった。
冷たい水で顔を洗い…鏡に映る自分の顔を見つめた。
そして、身支度を整えた。
僕の服は、結城がきれいにしておいてくれていた。
最後にもう1本だけ煙草を吸ってから、5枚の札を、畳んでポケットに押し込み、その部屋を出た。
階段を降り、ロビーへ出ると…ドアボーイの青年が声をかけてきた。
「結城様のお客様ですね」
「…あ、はい」
「タクシーを呼んでございます。どうぞこちらへ」
僕はビックリして…言われるがまま、その青年の後についていった。
ホテルの正面玄関に、タクシーが止まっていた。
「お代は結城様から頂いております。どちらへでも」
「…ありがとうございます…」
「またのお越しをお待ちしております」
青年は深々と頭を下げて、僕を見送った。
…またのお越しを…か。
走り出したタクシーの窓から、僕は初めてそのホテルの全貌を見た。
とても大きな、立派なホテルだった。
あの人は一体どういう人なんだろう…
僕はポケットから、昨夜貰った彼の名刺を取り出した。
結城貴彦
まさかこの人が、自分の将来に、良くも悪くも大きく関わってこようとは…このときの僕には思いもよらなかった。
乗り心地の良いタクシーに揺られて、僕はなんとなく全てが吹っ切れた気持ちで…
ただ、ただ早く冬樹に会いたいと思っていた。
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