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新たなはじまり(1)

結局…歌詞のひとつも思いつかないまま、 合宿の当日を迎えることになってしまった… その日は、朝から雨だった。 5月だというのに、肌寒いくらいの朝だった。 ちょうど方向的に通り道だったので、 彼らが寮まで迎えに来てくれる事になっていた。 僕は、連日の寝不足で… (もちろん、曲を覚えるのと歌詞を捻り出すために) 少し体調が悪い気がしていたが… 予定通り、学院の外門の前で、 彼らの車の到着を待った。 予定より10分くらい遅れて、車が到着した。 「おはよう、ごめんね、寒い中待たせちゃって…」 「いえ、こちらこそ、わざわざ来てもらって…」 一輔が運転していた。 助手席には尚人が乗っていた。 「後ろ乗って」 「はい」 僕は後部座席のドアを開けて、 ベースの圭の隣に乗り込んだ。 「おはようございます」 「おはよう…寒いね」 圭は僕の顔を覗き込んで言った。 「郁…なんか顔色悪くない?」 「ちょっと寝不足です…一輔さんが、歌詞つけてなんて言うから」 「あはは、そっか…で、どう?何か思い付いた?」 尚人が後ろを振り返って訊いてきた。 「それが…全然ダメなんですよーだいたい、あの音源じゃ、曲の雰囲気掴むのも僕には難しくて…」 「そうかもなーちゃんとアレンジできてからの方が、イメージ湧くかもなー」 「じゃ、この合宿終わるまでには…ってことで」 「うーん…それでも出来るか分かりませんけどね…」 車は順調に、やがて高速道路に入った。 1時間くらい走って、とあるインターで下りた。 そして観光地っぽい市街地を抜けて、 やがてカーブの多い山道に差し掛かった。 結城さんの別荘ら辺と似てるなー 車窓を眺めながら、僕は思った。 山道の途中の、更に横道に入って、 しばらく登ったところで、車は止まった。 「はーい…到着ー」 立地こそ、結城の別荘と似ていたが… そこは、それほど大きくもない、 ホントに、普通の別荘…といった感じの建物だった。 僕らは雨の中… 車と建物の間を往復して、機材や荷物を運び込んだ。 建物の1階に、 ドラムも常備された、音響設備のある部屋があった。 その隣にリビングとキッチン…バスルーム… そして2階には、寝室が2つあった。 「はっくしゅん…」 「郁、大丈夫?風邪ひいちゃったかな…」 「うーん…ちょっと、ヤバいかもしれません…」 寝不足のせいかと思ったが… 頭痛はするわ、クラクラ眩暈はするわ… 僕の体調は、悪化していた。 「喉…やられてないといいんだけど…」 「じゃあもう、今日はセッティング終わったらフリーにしよう。郁は部屋で寝てた方がいい」 「…そうします…」 キッチンの方へビニール袋を持っていった尚人が 一輔に訊いた。 「これ、もしかして自炊?」 「そうだよ」 「食糧…これだけ?」 「こっちで買えばいいかと思って…じゃあ、これから行って来ちゃうか…」 「俺も行く、今日フリーでいいんだろ?ついでに遊びに行きたいー」 「しょうがないなーそうするか…圭はどーする?」 圭は、機材をセッティングしながら答えた。 「俺はいいわ、ベースまだちゃんと考えてないし」 「そっか…じゃ、ついでに郁の面倒も見といてやって。ここにあるもの適当に食っていいから」 「わかった…」 それから一輔は、僕に向かって言った。 「そういえば今日、正田が後で差し入れに来るって言ってたよ」 「あはは…早速乱入するんだ…」 「じゃ、しっかり休んどいてね、明日からビッチリ練習するからさー」 「…はい」 そして、一輔と尚人は…車で出掛けていった。 僕はしばらく、リビングのソファーに座って。 圭がベースを弾いている様子を なんとなく見ていた。 頭のクラクラは、ますます酷くなってきてしまった。 ヤバい…これは熱が出るかもしれない… 僕は、頭を押さえながら…ソファーに横たわった。 と、ベースの音が止まって… 圭が僕の横へやってきた。 「こんな所でうたた寝したら、余計酷くなるよ…」 「…うん」 「上行って、ちゃんと布団で寝ろよ」 圭は、僕の両肩を掴んで…僕の身体を起こした。 そして腕を取って、立ち上がらせた。 「ほら…行くよ」 彼は僕の手を引いて、2階へと階段を上っていった。 頭が酷くクラクラした。 そして俄かに、目の前が霞んできた… と、思った次の瞬間、僕は足元がガクンと折れて… そのままその場に蹲った。 「お、おい…大丈夫か?!」 目の前は霞んだまま… 気持ちが酷く悪かった… そして続いて、恐ろしいほどの寒気が、 僕の身体を襲ってきた… 「おい、郁…しっかりしろよ…」 「…さむい…」 身体が…自分の意思でなく、ガクガクと震え出した。 その寒気と、気分の悪さは、 僕に、いつかの現象を思い起こさせた。 「寒い…寒いよ…」 圭は、僕の身体を抱き抱えて、 寝室のドアを開けて、中に入った。 僕はそのまま、床に倒れ込んだ。 身体の震えは酷くなり… そのうち僕は… 居ても立っても居られなくなってしまった… 朦朧とした意識の中、 とある人物が…僕の目の前に立ちはだかった 僕はその人物の名を呼んだ… 「…恭吾…」 それは、まさに去年の夏の… フラッシュバックだった…

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