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”
「市川? ……市川!」
何度も呼ばれて、蘭ははっと我に返った。
「どうしたんだよ、ぼんやりして」
「いや、別に……。ところで俺はもう、市川じゃないけどな」
「市川は市川だろ。それに俺は、お前のことを白柳なんて呼びたくねえよ」
稲本は口を尖らせた。
「で、話は戻るけど。俺は『オメガの会』のことを徹底的に調べ上げる。あの代表は、匂うぞ」
「ああ、あの中年女」
『オメガの会』の代表は、沢木薫子 という、四十代のオメガ女性である。年の割には華やかで美しいが、正体は今ひとつはっきりしない。経歴にも謎が多く、怪しさしか感じられなかった。
「新たな情報が入ったら、お前にも知らせる……。ところで」
稲本は蘭の手を、チラリと見た。
「さっきから気になってたんだが、その無数の傷は何だ? お前まで病院に潜入する気かと思ったぞ?」
「あー……。実は、料理で失敗して」
「料理!? お前が?」
稲本は、目をむいた。
「そんなに驚くことないだろ。一応は、結婚したんだし……。それに実は、陽介と喧嘩しちゃってさ。何とかして、機嫌を取んないといけねえんだよ」
「それで料理にチャレンジを?」
「ああ。そんなわけで、仲直りするまで情報は得られそうにない。悪いな、お前は頑張ってくれてるのに」
蘭は恐縮したが、稲本は意外にも怒らなかった。それどころか、機嫌が良さそうにすら見える。
「気にすんなって。それより、お前が傷つかない方が優先だ。その傷、早く治せよ?」
そんなことを言いながら、稲本は蘭の手を軽く撫でたのだった。
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