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「ええと、失礼ですが……」  首をかしげると、男は苦笑した。 「あ、覚えてくれてませんか。稲本の友人ですよ。前に、一緒に飲んだでしょう?」 「……ああ、そういえば」  蘭は、ようやく思い出した。社にいた頃、蘭と稲本、二人のそれぞれの学生時代の友人たちを交えて、皆で飲んだことがあったのだ。 「僕は、よく覚えてますけどね。こんな綺麗な方がいるんだったら、何としても『日暮新聞』に潜り込むんだった、と思ったから」  男は冗談めかして言った。 「稲本、元気にしてます?」 「……実は僕、『日暮新聞』を辞めたもので。稲本とも最近は会ってないですね」  部外者とはいえ、稲本との繋がりを知られないに越したことはない。蘭は、慎重に答えた。すると男は、眉をひそめた。 「そうですか……。いえ、実はあいつが心配でね。失恋が、相当ショックだったみたいだから」 「失恋?」  蘭は、オウム返しに言った。そんな話は、寝耳に水だ。 「あなたも知らないですか? あいつ、ずっと惚れてたオメガの子がいたらしいんですよ。でも最近、その子が他のアルファと番になっちゃったって。もうその晩は、大荒れでしたよ。つぶれるまで飲むもんだから、家まで連れて帰るのにどれほど苦労したことか」  蘭は、はっとした。陽介に番にされたと打ち明けた翌朝、稲本に電話をしたら、友人と名乗る男が出た。その男は、こう言っていたではないか。 『あいつ、昨夜泥酔しちゃいましてね。僕、アパートまで送ったんですけど……』  ――いや、まさか。稲本は、ずっと友達だったじゃないか……。  だが、稲本がつぶれるなんて、滅多にないことだ。あの時電話に出た友人が、目の前にいるこの男だろうか。蘭は、思い切って尋ねてみた。 「それ、いつのことですか?」 「一ヶ月くらい前だったかなあ……。あ、そうそう、思い出した。白柳陽介が、結婚の発表をした日だ」  間違いない。蘭は、愕然とした。

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