107 / 279

「テレビを点けたら、人気の若手政治家が結婚宣言してるんだもんなあ。びっくりしたから、印象に残ってて」  男は、屈託なくしゃべっている。 「稲本のやつ、それを観てますます不機嫌になっちゃって。関係ない有名人にまで当たるなよって思いましたね」 「……その、相手のオメガってどんな人か、稲本は話してましたか?」  蘭は、おそるおそる尋ねてみた。 「それがねえ、いくら鎌かけても、それだけは口を割らないんですよ。ずっとずっと片想いしてたって、繰り返すだけで……。大学関係では心当たりがいないから、仕事関係者かなあ? ご存じないですか?」 「……いえ。すみませんが、急ぎますのでもう失礼します」  男は、その相手が蘭だとは、ちっとも気づいていない様子だ。勘づかれる前に去ろう、と蘭は思った。 「今度稲本に会ったら、元気出せって伝えてくださいね!」  蘭は、適当にうなずくと、稲本が待つ駐車場へと向かった。頭の中は、混乱しきっている。  ――稲本が、俺を好き……? ずっと片想い……?  信じられなかった。『日暮新聞』にそろって入社して以来、稲本はそんな素振りを、一切見せなかった。二人きりで飲んだこともあるが、指一本触れられることもなかった。何よりハニートラップ作戦にも、渋々ながら付き合ってくれたではないか。  ――でも。  思い返せば、陽介との結婚が決まった後、稲本の態度は変わった。目的を果たしたら離婚するか、と確認していたっけ……。  ――俺、めちゃくちゃ無神経なことしてたんじゃ……。  いくら稲本の気持ちを知らなかったとはいえ、陽介を誘惑する手伝いをさせた。おまけに、さっきは何と言ったか。 『俺、陽介のこと、真剣に好きになり始めたんだ』  どんな顔をして海を迎えに行けばいいのだろう。悩みながら駐車場に着いた蘭は、あぜんとした。そこに、稲本の車はなかった。

ともだちにシェアしよう!