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「放せ!」  蘭は、必死で暴れた。そんな蘭の声が耳に届いているのかいないのか、稲本がうわごとのようにつぶやく。 「……蘭」  蘭は、ドキリとした。稲本が蘭を名前で呼ぶのは、初めてだった。だが、あれこれ考えている余裕はなかった。激しい頭痛が、蘭を襲い始めたのだ。 「や……、稲本、頼む。止めてくれ……」  勲に襲われた時と同じだった。番以外に触れられる苦痛に、蘭は顔をゆがめた。そんな蘭の姿に、稲本ははっと我に返ったようだった。 「――悪かった! 大丈夫か?」  稲本は、おろおろと蘭の様子をうかがっている。まだ込み上げてくる吐き気をこらえながら、蘭は彼をキッとにらみつけた。 「とにかく、早く海を返してくれ。それから、海は陽介の子じゃない」 「――何だって?」  呆然とする稲本に構わず、蘭は海の元へ走り寄った。騒ぎで目を覚ました海が、ぐずり始める。よしよし、とあやしてやりながら、蘭は稲本を見つめた。 「お前の気持ちに気づいてやれなかったのは、悪かった。でも、俺が愛してるのは陽介だ。勲を憎む気持ちに変わりはないが、陽介とは添い遂げたいと思っているし、政治家としても応援してやりたい。それを受け入れられないなら、もうお前とは一緒にやっていけない」 「おい……」  蘭は、海を連れて帰る支度を始めた。稲本は、しばらくそれを黙って見つめていたが、やがて低い声で尋ねた。 「白柳陽介を政治家として応援する、と言ったな?」 「ああ」  海を抱っこして、玄関へと向かう。そんな蘭の背中に向かって、稲本は言った。 「なら、道は険しいかもな。俺はこの写真を、知り合いの週刊誌記者に流した。新婚の白柳陽介議員には隠し子がいて、しかもその子の世話を新妻に押し付けた、という情報と共にな」 「――なっ……」  驚いて振り向いた蘭に、一枚の写真が突きつけられる。そこには、蘭自身が海を抱いてマンションを出入りしている姿が、写っていた。

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